〔抄私訳〕
「彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍、真龍ともに雲雨の能あること学習すべし」とある。
これは、春秋時代の楚の葉公が大変龍を愛し、絵にも画き、木にも彫って大層龍を愛好した。この気持ちに応えて、本物の龍が現れた時、恐れて走り去った。この喩えを今引き出されているのである。
これは「坐禅」と「作仏」の間柄を、この「真龍」と「彫龍」に喩えられるのである。そのわけは、「坐禅」は今の行動で、この行動の力によって成仏得道すると一般に理解しているが、今の「坐禅」はそうではなく、「坐禅」と「作仏」はまったく区別はないからである。
「坐禅」を「彫龍」に喩え、「作仏」を「真龍」に喩え、つまり、「彫龍」も「真龍」も一つであると理解するのが、仏祖相伝の「坐禅」の道理なのである。
「作仏」を期待しない「坐禅」であるから、「彫龍、真龍ともに雲雨の能あること学習すべし」と決められるのである。
「遠を貴することなかれ、遠を賎することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賎することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし」とある。
「遠」は「作仏」(仏に作ナること)に当たり、「近」は「坐禅」に当たるか。「遠」「近」ともに「作仏」であり、「坐禅」である。何を「貴い」とし何を「賎しい」とすべき道理はないというのである。
また、「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ」とは、世間でも「千聞は一見にしかず」(人から幾度も話を聞くより、実際に一度見る方が効果がある)といって、「目をおもくすること」もあり、また、一見するよりも耳で聞くほうが親しいなどということもある。
これらはみな一つを用いれば一つは捨てられる道理である。今の「坐禅」と「作仏」の間柄は、決して一つを用い一つを捨てるという勝劣取捨の義ではない。だから、一つを重くし一つを軽くすることはないのである。
「坐禅」も法界(世界)を尽くし、「作仏」も法界を尽くす、という道理によって「耳目をして聰明ならしむべし」と言うのである。
〔聞書私訳〕
/「彫龍・真龍」の「雲雨の能」を学べば、共に「彫龍・真龍」の二つの面目がなくなるのである。但し、これは「雲雨」に関してのことである。
また、「彫」と「真」を言うにも、「雲雨の能」があることは前例があり、「ともに雲雨の能ある」と言えば、「図箇什麼」の「図」がどちらも捨てないように、「彫」も「真」も「ともに雲雨の能」と取るのである。つまるところ、「彫」も「真」も善悪勝劣なしと理解するのである。
「三界の家宅を出る」(火事のように激しく煩悩に責め立てられる世界を出離する)とも言い、ただ「三界を厭う」とも言い《二乗が不生を願うのはこれである》、三界を一心とも納得するのである。
「彫龍」はまだ解脱していない時、「真龍」は解脱した時などと当ててはならない。解脱と繋縛ケバクを区別して境を置くようでは決して正法ではない。三界を一心とも、諸法を実相とも言うことこそ解脱の真実の大乗の法なのである。
/「耳目」の「貴」「賎」もまた同じで「尽十方界真実人体」(尽十方世界はこの真実人体である)と説き、「尽十方界沙門一隻眼」(尽十方世界は沙門の片目である)などと言うほどの「耳目」である。
どうみても、声を「耳」で聞き、物を「目」で見るのは世間の法(規範)である。「眼処聞声」(眼処に声を聞く)することこそ、仏道の慣わしと言うのも当たらない。「耳」を「目」に取り替えてみただけでは仕方がなく、吾我(自我)を離れての上のことで、相対するものがないからである。
/「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ」とは、「目」や「耳」を理解する方法があるということである。
古い言葉(天台教学)には、「機見不同」(人の見方は同じではない)「同聴異聞」(仏は一音の説法をしているが、聞く者によって聞き方が異なる)という言葉がある。但し、異聞だけでなく、「同聴不聞」とも言える。
華厳の会エ(華厳経を読誦・讃嘆する法会)では、聞く者と聞かない者が肩を並べる。また、「見の不同」とは、仏を見ても化法の四教(釈尊の一代の教えをその内容によって蔵教・通教・別教・円教の四つに分類した天台宗の教判)の仏は同じではないのである。
また、大乗の学者というものもかえって無闇に応身仏(衆生救済のためにこの世に姿を現した仏)を深く心にかける。
〔これら三つを斥けて、〕『法華経』の考えでは、「仏不入滅」(仏は入滅せず)、「霊山では四衆に囲繞イニョウされて説法しおはします」と言う。〔このようなことを、〕機根の浅い者は信用せず、どうしようもないことである。
『梵網経』『瓔珞経』の戒品カイホン(戒の種別篇)を引いて大乗戒(大乗仏教の戒律)とは言っても、説かれる言葉は、ことごとく小乗や権勢家の考え方である。応身仏を深く心にかけるのもこれほどのことである。
/「耳目をして聡明ならしむべし」とは、「三世諸仏が地に立って法を聴く」というのが今の「聡明」でもある。
合掌
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