〔抄私訳〕
「僧のいふ、『不思量底如何思量』。まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。」(僧が言う、「不思量の様子はどのように思量するのか」。本当に不思量の様子はたとえ古くからであっても、さらに言えば、これは如何思量である。)
「不思量の様子はたとえ古くからあっても」とは、「不思量の様子」は、しばらくさて置くという意味合いである。それはさて置き、「さらに言えば、これは如何思量である」と言うのである。
「不思量の様子」の道理はさて置く。「如何思量」とは、「不思量」と言うべきか、「思量」と言うべきかという道理を「如何」(どのような)と言うのである。これは即ち、「不思量」にも当たり、「思量」にも当たり、「如何」にも当たるのである。
「兀々地に思量はなかろうか、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賎近の愚にあらずは、兀々地を問著モンヂャクする力量あるべし、思量あるべし。」(兀々地に思量はないのか、兀々地の更に上にどうして通達しないのか。賤しく愚かな者でなければ、兀々地を問い正す力量がなければならない、思量がなければならない。)
本当に、どうして「兀々地に思量」はないのか。「兀々地の更に上にどうして通達しないのか」。「賤しく愚かな者でなければ」とは、今の仏祖の坐禅のことにくらい人を指すのである。「兀々地を問い正す力量がなければならない、思量がなければならない」とは、仏祖の坐禅の道理を参学する人を言うのである。
〔聞書私訳〕
/「不思量の様子はたとえ古くからあっても」とは、「不思量の様子」を改めようというのではなく、そのまま「不思量」を置いて「思量」として用いるために、「古くからあっても、さらに言えば、これは如何思量である」と言うのである。この「古くからあっても」というのは、古今に左右されない「古」であり、全体が「古」なのである。
合掌
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