〔抄私訳〕
「自己に参学せざるゆゑに、崩壞の当恁麼時は、一条両条、三四五条なるがゆゑに無尽条なり。かの条々、それ寧無我身なり」とある。
「一条両条」などの言葉は、ただ順々に「無尽条」ということを言い表す言葉である。つまるところ、「崩壞」の姿は、無尽際なのである。また、「一条両条」「三四五条」も「崩壞」と取るべきである。
決して、無尽際を極限の数とし、「一条」或いは「三四五条」等を少ない数と考えてはならない。「一条」も「三四五条」も無尽際も、ただ同じ意である。いずれも「崩壞」の道理なのである。「かの条々」の姿を「寧無我身」と言うのである。
「我身は寧無なり。而今を自惜して、我身を古仏心ならしめざることなかれ。」とある。
今、「而今」という言葉は「寧無」(むしろ無い)を指すのである。つまるところ、「我身寧無」と「古仏心」はただ同じものであることを、「寧無我身」を「自惜して、古仏心ならしめざることなかれ」と言うのである。
「まことに七仏以前に古仏心壁竪す、七仏以後に古仏心才生す、諸佛以前に古仏心花開す、諸佛以後に古仏心結果す、古仏心以前に古仏心脱落なり。」とある。
この「古仏心」の道理は、前後を超越している。この前後は、また「古仏心」の上の前後であるから、旧見の前後を解脱している。「才生」とは少い意であるが、この「才生」は決して多少に関わらない道理である。
このために、「古仏心以前に古仏心脱落」する道理である、「花開」(花が開く)も「結果」(果を結ぶ)も「古仏心」をこのように言うのである。
〔聞書私訳〕
/「崩壞の当恁麼時は、一条両条、三四五条なるがゆゑに無尽条なり」とは、「世界崩壞」して「沙門一隻眼」である。
「世界崩壞」して心があり、「世界崩壞」して身があり、
「世界崩壞」して「古仏心」があるとも言うのである。
/「崩壞」ということは、例えば、「諸法の仏法なる時節、迷あり悟あり」というのが、「崩壞」である。「万法われにあらざる時節、迷なく悟なく」と説くのが、「崩壞」である。
そもそもこの『古仏心』の巻で、「崩壞の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学することなかれ。自己に参学せざるゆゑに、崩壞の当恁麼時は、一条両条、三四五条なるがゆゑに無尽条なり」とあるが、
「尽十方界沙門一隻眼」という時、「世界崩壞」し、心と説く時も身と説く時もみな「崩壞」である、と言うのである。
これは「尽十方界沙門一隻眼」とも、「三界唯心」とも、「尽十方界真実人体」とも説けば、「世界」は「崩壞」すると思われる。
「一方を証すれば一方はくらし」と言うからである。
ただ、これはなお一重である。無尽の「世界」と言うために「崩壞」と使うのである。仏法で使う「崩壞」は、むなしく崩れ壊れるとは言わないのである。迷悟を並べて有りとも、無しとも説くほどである。
「一方を証すれば、一方はくらし」と説くからには、なお勝れた「崩壞」である。「一方を証させ、一方をくらし」と説くと、「崩壞」の意味合いは、なお崩れてなくなる意味合いが残るから、ただ無尽と説くのである。
/「寧無我身ネイムガシン」(寧ろ無いのが我が身)とは、この「我身」は尽十方界真実人体の「身」である。「世界」を「我身」とすると思われる。
このようなときは「無我身」は「崩壞」である。「無我身」の「無」は、例の有無の無ではなく、「寧無我身」を「崩壞」であると理解すべきである。
「悉有」も、「知らんと欲せば」も、「妄想すること莫かれ」も、「先須らく我慢を除くべし」も仏性と究尽するような「寧無我身」は「崩壞」と心得るべきである。「古仏心」は「世界崩壞」、「世界崩壞」は「寧無我身」なのである。
「壁竪」「才生」「花開」「結果」とは、これらを「古仏心以前に古仏心脱落なり」とある。「古仏」と「心」と「脱落」は、「古仏心以前」と理解すべきなのである。
合掌
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