〔抄私訳〕
「しかあれば、認賊為子を却迷とするにあらず、認子為賊を却迷とするにあらず。大悟は認賊為賊なるべし、却迷は認子為子なり。」とある
。
これは、「認賊為子」(賊を認め子と為す)「認子為賊」(子を認め賊と為す)などと言えば、やはり賊と子は別に思われる。「認賊為賊なるべし」「認子為子なり」とは、「大悟」(大きな悟り)と「却迷」(かえって迷うこと)の関係を「認子為子」と「認賊為賊」の関係ほどに理解すべきと言うのである。
「多処添些子タショテンシャスを大悟とす。少処減些子、これ却迷なり。」とある。
「多い処」ではものを添え、「少い処」ではものを減らすと言う。「多」は「多」として貫き、「少」は「少」として尽くすのである。これを「大悟」と「却迷」それぞれに当てはめているのである。これはすなわち、「大悟」は「大悟」として法界(全世界)を尽くし、「却迷」は「却迷」として法界を尽くすという意味である。ただまったく交じるものがない道理を明らかにされるのである。
「しかあれば、却迷者を摸著モヂャクして把定了ハジョウリョウに大悟底人に相逢ソウホウすべし。」とある。
これは、例えば「却迷者」(かえって迷う者)の姿を定めて、「大悟底人に相逢すべし」というのである。「却迷者」と「大悟底人」は、「相逢べし」とは、「却迷者」と「大悟底人」が同じ意味であることを表す言葉である。
「而今の自己、これ却迷なるか、不迷なるか、𢮦点、将来すべし。これを参見仏祖とす。」とある。
これも、「迷」と「不迷」が同じ意味であることを言うのである。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
↓ ↓
コメント
コメントを投稿