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一人の悟っていない者を求めても得られない 『第十大悟』10-2-1b

 〔抄私訳〕

これは慧照大師の言葉をほめられるのである。


「大唐国裏といふは、自己眼睛裏なり。尽界にかゝはれず、塵刹にとどまらず。遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず。山人、水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。学人かくのごとく臨済の道ドウを参学せん、虚度光陰コドコウインなるべからず」。


「大唐国裏」と言うと、一般には唐国の中であり、「一人の不悟者を覓むるに難得なり」と言うと、みな悟っている者ばかりと思われる。世間一般でもこの言葉は疑わしい。どうして唐の国の中に、みな悟った人ばかりがいると心得られようか。


しかし、ただ今の註釈者(道元禅師)は、「自己眼睛裏」を「大唐国」と心得るのである。だから、正に「尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまら」ないという道理が必然なのである。


「自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず」とは、「自己」も「他己」も、「昨」も「今」もみな「悟」であり、「不悟者の一人」もいないのである。


また、「山人、水人」の「山、水」の言葉は不用である。ただ「一人の不悟者を覓むるに難得なり」とある言葉の、「人」の語を取るためだけに出てきた「山、水」であると心得るべきである。


〔聞書私訳〕

/慧照大師の段。

臨済院慧照大師云、「大唐国裏、覓一人不悟者難得」。


/「不悟者難得」について二つの理解の仕方がある。「悟者」だけあって「不悟者」なしという理解がある。もう一つは「不悟者」の面目がそのまま「難得」と言われるという理解がある。


例えば、「心不可得」(心は得ようとしても得られるものではなく、心は不可得という矛盾的存在である)の心である。『心不可得』の巻で、「不可得裏」と言ったように、今は「難得裏」なのである。


/「尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまらず」とあるのは、日頃の見解とまったく相違している。国土と言うからには、どうして「尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまら」ないことがあろうか。いずれにしても理解できないけれども、「眼睛」(仏の眼)「尽界」(全世界)「塵刹」(無数の国土)の三つを「大唐国」と指すのである。この三つにそれぞれ「裏」の字を付けても、「難得」なのである。


従ってまた、「悟」「不悟」もこのように心得るべきときに、「悟らない者を求めても得られない」と言っても、我々の「不得」(得ない)のように心得てはならない。


「不悟者難得」は「不悟至道」(大悟にも要がなくなり仏道に極まること)と同じ言葉であり、「悟者難得」は「弄悟省悟」(大悟を省み大悟を使いぬくこと)と同じ言葉とも心得るべきである。


そもそも「難得」はあるものか、ないものか。『法華経』で「難解難入」(仏の教えは解し難く入り難い)と説くが、「唯仏与仏、乃能究尽」(ただ仏と仏のみが、諸法実相をよく究め尽くしている)と説く上で、一乗の法(『法華経』)の外に「難解難入」のものがあるあるであろうか、あるはずがないのである。


法華論』に引用する経文には「難見難覚難知」の言葉を加えているから、「難得」と言っても、単に「得難い」という意味だけではないのである。


例えば、「心不可得」(心は得ようとしても得られるものではなく、心は不可得という矛盾的存在である)の「不可得」ほどの語である。或いは、「実相の理」を「難解難入」と説くのである。


/すべて、悟りは「難得」の法と言うべきであろう。〔ここまでは教学的注釈である。〕


/「自己の昨自己」とは、過去現在未来の三世を指すのである。この言葉は、「自」と「他」と、「昨」と「今」と入れ違えて言っており、どうしてかと思われるが、つまりは「不悟者にあら」ぬところしかないと言うのである。


                           合掌


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