〔抄私訳〕
「このゆゑに、大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟ショウゴロウゴし、
失悟放行ホウアンす。これ、仏祖家常カジョウなり。」とある。
これは、「大悟」(無上正等正覚)の上の「不悟」(悟にとらわれないこと)が「至道」(仏道に到る)し、「省悟」(悟を省みること)が「弄悟」(悟を使いぬく)し、「失悟」(悟を忘れること)が「放行」(大道にかなって自由自在に生活する)のである。
「大悟」「不悟」は会不会エフエ(会の上の不会)である。一般には、「失悟」は悪い言葉と思われるが、「大悟」の上の「失悟」であるので、善悪には関わらないのである。
「挙拈コネンする使得シトク十二時あり。抛却ホウキャクする被使十二時あり」とある。
「挙拈」は「大悟」に当たり、「大悟現成」の時は、「不悟」「省悟」などはみな隠れるのである。この隠れる所をしばらく「抛却」と使うのである。
「十二時」とは解脱の言葉である。
「十二時を使い得る」と、「十二時に使われる」とは、ただ同じことである。
「さらに、この関棙子カンレイスを跳出する弄泥団ロウデイダンもあり、
弄精魂ロウゼイコンもあり」とある。
これはこの「関棙子を跳出する」時は、「大悟」「不悟」「省悟」などに限らず、どのような言葉も出てくる道理である。
〔聞書私訳〕
/「挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり」と言う。
これは、「省悟弄悟」(悟を省み悟を使いぬく)などという意を「挙拈」とも使い、「失悟放行」(悟を忘れ道にかなって自由自在に生活する)という意を「抛却」とも使うのである。
「使い得る」(使得)と「使われる」(被使)というのは、みな「十二時」の上で説くのである。この「大道」が伝わるのを「大悟現成」と言うのである。「弄悟」「失悟」とも「放行」とも言われるように、「使得」し「被使」するのである。「大悟」の上と、「十二時」の上と、変わらないのである。
この「使われる」ということは、誰かが何かを使うと言うのではなく、「平展」(平生底)の「至道」(仏道の究極)であると使うのである。
また、今の「十二時」は、午ウマ未ヒツジ子ネ丑ウシなどと一般的時刻を数えよというわけではない。つまるところ、諸法(すべてのもの〉が実相(真実のすがた)を「使得」し、実相が諸法に「使得」されるほどのことである。
また、諸法は諸法であり、実相は実相であるとも言い、或いは、「弄泥団」(身学道)とも「弄精魂」(心学道)とも言うのが、このことである。一心は一心であり、三界をかりる必要はなく、また、一心は一心でなく、三界は三界ではないとも言うことができるであろう。
/「弄泥団」「弄精魂」と言う。泥を丸めたり、我々の魂を弄ぶと思われるが、「仏々の大道」や「祖々の功業」では、これを下げ、あれを上げることはなく、「諸法の仏法なる時節、諸仏あり、衆生あり」という意味合いで、今は「弄泥団・弄精魂」と言うのである。
例えば、大地を弄モテアソび、虚空を弄び、山河を弄ぶと言うのと、同じ意味である。「弄精魂」と言えば、我々の肉体のことと思われるが、今は仏道の上で理解すべきである。
合掌
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