〔抄私訳〕
「向来コウライの四十位の仏祖、ともにこれ古仏なりといへども、心あり身あり、光明あり国土あり、過去久矣キュウイあり、未曾ミゾウ過去あり。たとひ未曾過去なりとも、たとひ過去久矣なりとも、おなじくこれ古仏の功徳なるべし」とある。
この言葉は、ありふれた吾我(自我)の身に引き受けさせて、
「古仏」(仏の中の仏)であっても「心」もあり「身」もあり、
「光明」も具え「国土」もあると言うように思われるが、そうではない。
「古仏」を「心」とも「身」とも、「光明」とも「国土」とも、
「過去久矣」(過ぎ去りて久し)とも「未曾過去」(未だ曾て過ぎ去らず)とも
言うのであり、凡夫の考えと同類になってはいけないのである。
「古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。代々の古仏なり。
いはゆる古仏は、新古の古に一斉イッセイなりといへども、
さらに古今を超出せり、古今に正直なり」とある。
「古仏の道を参学する」時は「学」(修行)の位であり、決して「証」(悟り)とは
言えない。ただ、「古仏の道を参学する」ことがそのまま「証」なのである。
「証」を外で待たないからである。
だから「参学」(参禅学道)は即ち「証」なのである。この道理であるから
「代々の古仏なり」と示されるのである。この「古仏」の「古」は、
本当に「新古の古」に「一斉」でない道理が、いかにもその趣旨がある。
「新古の古」は際があるように見える。
今の「超出」の「古今」こそ本当に「正直」な「古今」と言うことができ、
その理がいかにも明らかになるのである。
〔聞書私訳〕
/「過去久矣」とは、今日より前を指すだけでは「久矣」ではない。
今「未曾過去」と説くからこそ、常に時間的な久近を脱落しているのである。
合掌
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