〔抄私訳〕
「あはれむべし、婆子・徳山、過去心・未来心、問著モンヂャク・道著ドウヂャク、未来心不可得なるのみなり。おほよそ徳山それよりのちも、させる発明ありともみえず、ただあらあらしき造次のみなり」とある。
これもまた、「徳山」と「婆子」、「問著」と「道著」は、みな三世「不可得」の道理を不得ずと嫌われるのである。以下は文の通りである。「あらあらしき造次」とは、法文ホウモン(仏の教えを記した文章)を人に教えると言って、徳山が棒で人を打った、そのことである。
「ひさしく龍潭にとぶらひせば、頭角触折することもあらまし、
頷珠を正伝する時節にもあはまし」とある。
これは徳山宣鑑禅師のことである。「龍潭」(龍潭崇信:石頭系で徳山宣鑑の師)の言葉に関連して、「頭角触折」の言葉も「頷珠」「正伝」(仏教が正しく伝わること)の言葉も、それをよりどころに引き出されたのである。
「頭角触折」(龍の頭の角が触れて折れること)は解脱の言葉であり、
「頷珠」(龍のあごの下にある珠)はまた得法(仏法を会得すること)
の言葉である。
「わづかに吹滅紙燭をみる、伝灯に不足なり。しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり」とある。
これもまた徳山を許されない言葉である。「龍潭」の崇信禅師が小参(学人が方丈で住持から親しく教えを受けること)を行ったときに、徳山が衆僧の中に立っていた。小参が終わっても堂を出なかったので、崇信禅師が「どうして出ないのか」と言われたときに、「暗いのでここを出ないのです」と返答した。
その時、崇信禅師が紙の燭トモシビをかざして徳山に与え、徳山が紙の燭を取ろうとしたときに、崇信禅師が燭を吹き消した。その時、徳山が道を悟ったと言う、そのことを今載せられるのである。
紙の燭について、「伝燈に不足なり」と書かれたのである。
「おほよそ心不可得とは、画餅ガビョウ一枚を買弄マイロウして、
一口に咬著嚼尽コウヂャクシャクジンするをいふ」とある。
つまるところ、「心不可得」の道理はこのようなのである。
「画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽する」ありようは、
解脱の義である。
〔聞書私訳〕
/「頭角触折」とは、この言葉は、善悪に渡る。悟りを得る時、頭の骨が出て角が落ちるということがあり、あるいは、被毛載角(毛におおわれ角を載せること)と言って、愚かなこととして言うこともある。
/「一口に咬著嚼尽コウヂャクシャクジンする《明らかにする》をいふ」とは、
合掌
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