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正8-4b『第八心不可得』第四b 聞書抄〔心不可得とは、修証一等の解脱のことを言うのである〕

 〔抄私訳〕

「あはれむべし、婆子・徳山、過去心・未来心、問著モンヂャク・道著ドウヂャク、未来心不可得なるのみなり。おほよそ徳山それよりのちも、させる発明ありともみえず、ただあらあらしき造次のみなり」とある。


これもまた、「徳山」と「婆子」、「問著」と「道著」は、みな三世「不可得」の道理を不得ずと嫌われるのである。以下は文の通りである。「あらあらしき造次」とは、法文ホウモン(仏の教えを記した文章)を人に教えると言って、徳山が棒で人を打った、そのことである。


「ひさしく龍潭にとぶらひせば、頭角触折することもあらまし、

頷珠を正伝する時節にもあはまし」とある。


これは徳山宣鑑禅師のことである。「龍潭」(龍潭崇信:石頭系で徳山宣鑑の師)の言葉に関連して、「頭角触折」の言葉も「頷珠」「正伝」(仏教が正しく伝わること)の言葉も、それをよりどころに引き出されたのである。


「頭角触折」(龍の頭の角が触れて折れること)は解脱の言葉であり、

「頷珠」(龍のあごの下にある珠)はまた得法(仏法を会得すること)

の言葉である。


「わづかに吹滅紙燭をみる、伝灯に不足なり。しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり」とある。


これもまた徳山を許されない言葉である。「龍潭」の崇信禅師が小参(学人が方丈で住持から親しく教えを受けること)を行ったときに、徳山が衆僧の中に立っていた。小参が終わっても堂を出なかったので、崇信禅師が「どうして出ないのか」と言われたときに、「暗いのでここを出ないのです」と返答した。


その時、崇信禅師が紙の燭トモシビをかざして徳山に与え、徳山が紙の燭を取ろうとしたときに、崇信禅師が燭を吹き消した。その時、徳山が道を悟ったと言う、そのことを今載せられるのである。

紙の燭について、「伝燈に不足なり」と書かれたのである。


「おほよそ心不可得とは、画餅ガビョウ一枚を買弄マイロウして、

一口に咬著嚼尽コウヂャクシャクジンするをいふ」とある。


つまるところ、「心不可得」の道理はこのようなのである。

「画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽する」ありようは、

解脱の義である。


〔聞書私訳〕

/「頭角触折」とは、この言葉は、善悪に渡る。悟りを得る時、頭の骨が出て角が落ちるということがあり、あるいは、被毛載角(毛におおわれ角を載せること)と言って、愚かなこととして言うこともある。


/「一口に咬著嚼尽コウヂャクシャクジンする《明らかにする》をいふ」とは、
「餅」を失くすことではない。
「餅」(心)を使用することは「不可得」(得ようとしても得られないこと)
なのである。


                       合掌



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