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正8-3-2『第八心不可得』第三段の2〔和尚は心が餅を点ずることを知らず、心が心を点ずることも知らない〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

婆子バスもし徳山とはん、

「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。

いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする」。


かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかつていふべし、


「和尚はたゞもちひの心を点ずべからずとのみしりて、

心のもちひを点ずることをしらず、

心の心を点ずることをもしらず」。 



〔抄私訳〕

「もし徳山かくのごとくいはましかば、伶利の参学ならん。婆子もし徳山とはん、『現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする』。かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかふていふべし、『和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず』とある。


これはただ、「不可得」であれば、「餅」をどうやって点ずるのかということだけ知っているのは、仏祖が談ずる三世の道理を知らない時のことである。今の「餅」をすでに「心」と談ずるからには、「餅」を「心」が「点ずる」とばかり心得るのは世間の考えである。「心のもちひを点ずることをもしらず」とは、この「心」がすなわち「餅」である道理である。だから、「心のもちひを点ずることをもしらず」と決められるのである。


〔聞書私訳〕

/「点ぜんとかする」とは、この「点」は、

成仏する、成仏しようというほどのことである。


/「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」とは、この三つの文句はただ同じ意味であり、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という意味である。


三世を「心」だ「不可得」だなどと解釈されていると思われるけれども、「心を点ずる」ことがはっきりしないのである。ただ、これは「心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをしらず」とあるのではっきりしているである。


また、「心の心を点ずることをもしらず」とは、「餅」と「点」と「心」が一つである道理を知らないというのであり、「不可得裏に」三世を「わんワンライせり」ということで理解された。三世と「心」は変わらず、一つであるから三世を「餅」の外に置くのは、これこそ「餅の心を点ずべからず」に当たるのである。「心」の「餅」を「点ずる」のだと、三世と「餅」と親密である道理を明らかにしたのである。


今の「心の心を点ずることをしらず」と言われるのは、三世と「心」、「餅」と「点」などをそれぞれ別に取り扱うところが、「心の心を点ずることをもしらず」と言われるのである。三世と「心」、「餅」と「点」は一つなのである。


〔『正法眼蔵』私訳〕

老婆は、もし徳山が、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得である、今餅でどの心を点じようとするのか」と問うなら、

(婆子もし徳山とはん、「現在心不可得、過去心不可得、未来心不可得。いまもちひをしていづれの心をか点ぜんとかする」。)


このように問うなら、老婆は、徳山にこう言うといい、

「和尚さんはただ餅が心を点ずることができないことだけ知って、

心が餅を点ずることを知らず心が心を点ずることも知らない」と。

(かくのごとくとはんに、婆子すなはち徳山にむかふていふべし、

「和尚はただもちひの心を点ずべからずとのみしりて、

心のもちひを点ずることをしらず、心の心を点ずることをもしらず」。)



                       合掌



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