〔抄私訳〕
「しかあればすなはち、この明珠の有如無始ウニョムシは無端ムタンなり。
尽十方世界一顆明珠なり、両顆三顆といはず」とある。
「有如無始」の「如」と「始」の言葉は、心得られないようであるが、
つまるところ、「一顆明珠」の上の「有」「無」であり、本当に「無端」
なのである。また、「両顆三顆といはず」、ただ「一顆明珠」と言うので、
明らかである。
「全身これ一隻イッセキの正法眼ショウボウゲンなり、全身これ真実体なり、
全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全心なり。全身のとき、
全身の罣礙ケイゲなし。円陀々地エンダダチなり、転轆々テンロクロクなり」とある。
「一顆明珠」の上で、この道理などがあるのであり、これらはみな
「一顆明珠」なのである。「全身」の時、本当に、どうして「全身の罣礙」
ということがあろう。
「円陀々地」とは、丸く角もない意で、無始無終、或いは道環(仏祖の大道が丸い環のようになって欠けることがない様子)などという意味合いである。
「転轆々」とは、車がゴロゴロと物を引く時に回る姿であり、
どこを始めとし、どこを終わりということもなく、際限がない言葉である。
「明珠の功徳かくのごとく見成ケンジョウなるゆゑに、いまの見色聞声ケンシキモンショウの観音カンノン弥勒ミロクあり、現身説法の古仏新仏あり」とある。
これは、「一顆明珠」を、「観音」「弥勒」というのである。
人がいて「色を見、声を聞く」のを「観音、弥勒」というのではない。
今の「色を見、声を聞く」姿を、そのまま「観音」「弥勒」というのである。
「現身説法の古仏新仏」も、ただこの道理なのである。
〔聞書私訳〕
/「全身のとき、全身の罣礙ケイゲなし」と言う。
一般には、身と心を置いて「罣礙なし」(妨げなし)とも言ってしまうことができるだろうところを、心とは言わないで、そのまま身と身の「罣礙なし」と言う時に、「円陀々地」「転轆々」であるということである。
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