〔抄私訳〕
「嗣せざらんと廻避せんに、廻避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然シャクネン廻避するも、道取生サンあるは現前の蓋ガイ時節なり」とある。
「廻避のところなかるべきにあらず」とは、「廻避のところあるべきにあらず」であるが、「廻避のところ」を許すとしても、これは「一顆明珠」の上での「廻避」であり、ほかの所ではないのである。
僧の「如何会得」の言葉と、玄砂の「用会作麼」の言葉は、ともに「仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣し、玄砂は玄砂に嗣する」道理であるから、この「道取生あるは」つまるところ「一顆明珠」の「蓋時節なり」と言うのである。
〔聞書私訳〕
/「嗣せざらんと廻避せんに、廻避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然廻避するも、道取生あるは現前の蓋ガイ時節なり」とある。
「廻避」はするけれども、避ける所がそのまま「尽十方世界是一顆明珠」である時に、避けると言っても同じなのである。
/「尽十方世界」は、すでに「一顆明珠」であるから、「廻避のところ」はそのまま「明珠」であり、「玄砂は玄砂に嗣する」と同じことなのである。
合掌
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