〔抄私訳〕
「いま道取する「尽十方世界是一顆明珠」、はじめて玄砂にあり」とある。
確かに「尽十方世界是一顆明珠」の言葉は初めて玄砂から出たものである。
「その宗旨は、尽十方世界は、広大にあらず微小にあらず、方円にあらず、
中正にあらず、活鱍々カッパツパツにあらず露廻廻ロカイカイにあらず。さらに、
生死去来ショウジコライにあらざるゆゑに生死去来なり」とある。
「尽十方世界」は、決して世間で思いならわしている「広大・微小・方円・中正・活鱍々・露廻々」などではない。「尽十方世界」の時はただ「尽十方世界」で、「広大」とも、あるいは「活鱍々」「露廻々」とも言われ、
それを「尽十方世界」であると言うのである。
また、「生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり」とは、
今仏法で談ずるところの全機(すべての働き)の生死なのである。
「胎卵湿化生の外に胎卵湿化生あり」と言ったほどの意である。
「恁麼インモのゆゑに、昔日曾此去セキジツソウシコにして、而今従此来ニコンジュウシライなり。
究辦グウベンするに、たれか片ゝヘンペンなりと見徹するあらん、たれか兀ゝゴツゴツ
なりと検挙ケンコするあらん」とある。
「昔日」「而今」などと言えば、昔と今と相い対しているようである。
また、「此去」「従此来」などと言えば、「去来」の言葉に関わるように思われるが、ただ「一顆明珠」の上の「昔今」「去来」と心得るべきである。
「一顆明珠」の光明の照らす所が、「たれか片ゝなりと見徹するあらん、
たれか兀ゝなりと検挙するあらん」と言われるのである。
見るもの・見られるものがない道理で、「一顆明珠」が独り立つ姿である。
合掌
『第七一顆明珠』第三段a 原文〔自分の生死去来ではないから仏の生死去来である〕
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