〔抄私訳〕
「たとひ烈焔にくらしといふとも、亙天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり(以下略)」とある。
「烈焔」(烈しい火焔)と「亙天」(満天)はただ同じものであるから、
「烈焔亙天」と言わなくても、「亙天」に覆われないものはないのである。
それなら、「亙天」で足りるであろう、「烈焔」の言葉がなくてもという意である。
「亙天」の覆うところは、すでに「烈焔」であると言うのである。
「烈焔」と「亙天」は同じであることが明らかである。
「這箇をきらうて用那頭は作麼生なるのみなり」とは、
こちらを嫌ってあちらを用いるとはどういうことかという意である。
「去聖方遠」とは、聖なるインドと遠い中国・日本のことである。
「去聖時遠」とは、釈尊入滅後二千余年のことである。
文の通り心得るべきである。
「いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、
法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし」とある
この言葉を何度も讃えられるのである。本当に素晴らしい言葉である。
合掌
コメント
コメントを投稿