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正6-30-1『第六行仏威儀』第三十段①〔雪峰が衆生の煩悩妄想を奪う大泥棒の白い猿のようなものだと思ったら、もっと上手の大泥棒の黒い猿のような玄砂が出てきたわい〕

 〔『正法眼蔵』原文〕 

 圜悟エンゴいはくの猴白コウハクと将謂ショウイする、

さらに猴黒コウコクをさへざる互換の投機、それ神出鬼没なり。


これは玄砂と同条出すれども、玄砂に同条入せざる一路も

あるべしといへども、火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか。


黒白互換コクビャクゴカンのこゝろ、玄砂の神鬼に出没すといへども、

雪峰の声色ショウシキ、いまだ黒白の際にのこらず。


しかもかくのごとくなりといへども、

玄砂に道是ドウゼあり、道不是ドウフゼあり。


雪峰に道拈ドウネンあり、道放あることをしるべし。


いま圜悟さらに玄砂に同ぜず、雪峰に同ぜざる道あり、

いはゆる烈焔亙天はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。


この道ドウは、真箇これ晩進の光明なり。



〔抄私訳〕

「この道は、真箇これ晩進の光明なり」とある。

これは雪峰と玄砂の言葉に、理もありまた不是(正しくない)ある

と言うのである。ただ、このように言うからといって、

本当に雪峰と玄砂の言葉に不是があるということでは決してないのである。


雪峰と玄砂の言葉に響く道理があるからこそ、圜悟の言葉も出てくるときに、彼を非難しこれを賞める意があってはならないところを、非常に委しく裏表に談じるとき、文面について、しばらくこのような一応の義もあるのである。


そのわけは、雪峰の言葉は「火焔」を「道場」とし「三世諸仏」が「転大法輪」し、玄砂は「火焔」の「説法」を「三世諸仏」が「立地聴」するとあり、文面は、あれこれ取り分けているように思われるところをこのように言われるのである。


それに今圜悟の言葉に、「烈焔亙天はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり」と明瞭に言うので、能所(行為者と対象)彼此(他と自)も聞こえないのである。この圜悟の言葉をしばらく味わうために、雪峰と玄砂の言葉を、「道是」「道不是」「道拈」「道放」と言うのである。


そうはいっても、前の両古仏の言葉を嫌い、浅深を立てるのではない。

この圜悟の言葉は、両古仏の言葉に残る分が少しもなくても、

あれやこれやと法の理を表すとき、

しばらくこのような言葉も出てくるのだと心得るべきである。


「圜悟いはくの猴白と将謂する、さらに猴黒をさへざる互換の投機、

それ神出鬼没なり」とある。

黒白は違うものであるにちがいないが、

今は猿の上で黒白を語るから、この黒白はただ同じものである。


「神出鬼没」の言葉の、神と鬼はただ同じものであり、

神鬼の上で出没の言葉があるから、これも同じ言葉と心得るべきである。


結局、「雪峰」と「玄砂」の言葉は違っているようであるが、

ただ同じ道理である。

「猴白」「猴黒」ほどの義であるということを圜悟が示されるのである。


「これは玄砂と同条出すれども、玄砂に同条入せざる一路もあるべしといへども、火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか(以下略)」とある。


これは、雪峰と玄砂の言葉はただ同じ意であるが、言葉の表現がいささか違っているところをこのように言われるのである。


「火焔」と「諸仏」はそれぞれ別でない義であるから、「火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか」と受けられるのである。

いずれにも当たっている義である。


「黒白互換のこゝろ」と「玄砂の神鬼に出没」と同じ道理であるけれども、

雪峰の言葉も「黒白」「神鬼」「出没」等の理を、

残らず言い尽くしているという意である。



                             合掌


 

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