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正6-24-3『第六行仏威儀』第二十四段③〔『正法眼蔵』私訳〕〔火焔(たった今)と諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)は親密であるか〕

 〔聞書私訳〕

/「転法(法と転じる)・法転(法が転じる)」とは、

能所(主客)のない義であり、理として説くのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知らなければいけない、

諸仏の火焔(たった今)は世間の人が言う火焔ではない。

(しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。)


また、世間の人が言う火焔はあるかないかとも、

注意を払って一つ一つ確かめるべきである。

(又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。)


三世の諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)が火焔(たった今)の中で

衆生を教化した方便を、学ぶべきである。

(三世諸仏の在火焔裏の化儀、ならふべし。)


火焔(たった今)にいる時は、

火焔(たった今)と諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)

親切であるか、かえって疎遠であるか。

(火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。)

〔これ以下も参究の言葉である。〕


火焔(たった今)の環境と仏(自分という刷り込みがなくなった人)の身体とは一体であるか、火焔の環境と仏の身体とは別であるか。

(依正一如なるか、依報正報あるか。)


環境と身体とは一続きか、環境と身体とは隔たっているか。

(依正同条なるか、依正同隔なるか。)


法輪(真実の在り様)を転ずることは、

自己を転じ他者を転ずることである。

(転大法輪は転自転機あるべし。)


学人が自己の境地を述べるのは法(真実の在り様)を転ずることであり、

師が弟子の心境に応じて教えを垂れるのは法が転ずることである。

(展事投機なり、転法法転あるべし。)


すでに法輪(真実の在り様)を転ずると言うからには、

たとえ全大地が尽く火焔(たった今)であっても、

火焔を転ずる法輪もあろう、諸仏を転ずる法輪もあろう、

法輪を転ずる法輪もあろう、三世を転ずる法輪もあろう。


(すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、

転諸仏の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。)


〔我々のたった今はみな真実の在り様を転ずるのである。

だからどこでも真実の在り様が転じられるのであり、

これが行仏(たった今を行ずること)なのである。〕




                            合掌

                               


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