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正6-23-2『第六行仏威儀』第二十三段② 〔三世の諸仏というのは、一切の諸仏である〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 いま「三世諸仏」といふは、一切諸仏なり。


行仏はすなはち三世諸仏なり。


十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。


仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。


いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。


たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、

かならず三世諸仏なる行仏なり。



〔抄私訳〕

今「三世諸仏」とは、一般には、過去は既に過ぎ、未来は未だ来ておらず、現在は今あると理解する。また、「十方諸仏」とは、東西南北四維上下においてみなそれぞれに成道(成仏得道)を唱えて衆生を教化済度されると理解する。


これは横竪オウジュ(空間・時間)の義で、三世(過去・現在・未来)を立てるのは竪(時間)の義、四方・四角は横(空間)の義である。今は、「三世諸仏といふは一切諸仏なり、行仏はすなわち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし」と言って、仏の上で三世を立てるのである。


東西南北というのも、中央を置いてこそ四方が立つのであるが、これは東方と言う時は全大地・全世界がみな東方で、東方でない時節はないのである。あるいは、西南北四維上下も、みな東方と同じである。東西南北の言葉もそれぞれまったく違いはないのである。


なお、「一切諸仏」といっても、それぞれの仏を「一切諸仏」と言うのではない。結局、「三世諸仏」「一切諸仏」「十方諸仏」はみな同体であり、「行仏威儀」(たった今を行ずる在りよう)なのである。一仏の上で「三世諸仏」とも「一切諸仏」とも「十方諸仏」とも言うのである。


「たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、

かならず三世諸仏なる行仏なり。」とある。


「知有」「不知有」ともに「三世諸仏」の上で言い、

「行仏」(たった今を行ずること)の上で言うのである。

だから、知・不知に関わらないのである。


〔聞書私訳〕

/この処とは、必ずしも「火焔」でもない。結局、「三世諸仏」が、諸仏に在って「転大法輪」(大法輪を転ず)とも、一心に在ってとも、実相に在って「転大法輪」するとも言うことができるのである。諸仏が成仏する時、「大地と有情が同時に成道する」と言うから、普賢フケン菩薩優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する賢者)を説く時は「普賢の身相は虚空の如し、真に依りて住せば国土に非ず」と言うのである。


/「知有なり」とも「不知有なり」ともと言うのは、前に、「三世諸仏」は「不知有」で、「貍奴白牯」は「却知有」だと言ったが、今は「知有」「不知有」を「三世諸仏」である「行仏」と言うのである。用いられる法が一つであるから、その体もまた一つである。「不知是道」ということもある、知不知に関わらないからである。



〔『正法眼蔵』〕私訳〕

今、三世の諸仏というのは、

一切がみな諸仏であるということである。

(いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。)

〔我々もおのおのこの諸仏に洩れるものはない。〕


行仏(たった今を行ずること)は、その三世の諸仏である。

(行仏すなはち三世諸仏なり。)


十方の諸仏というのも、みな三世にわたらないものはない。

(十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。)


仏道は三世を説くとき、このように説き尽くすのである。

(仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。)


今、行仏を尋ねると、言うまでもなく三世の諸仏である。

(いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。)


たとえ三世の諸仏が有ることを知っていても、

たとえ三世の諸仏が有ることを知らなくても、

みな必ず三世の諸仏である行仏(たった今を行ずること)なのである。

(たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、

かならず三世諸仏なる行仏なり。)



                                 合掌

                               


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