明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
〔『正法眼蔵』原文〕
一条鉄か、両頭動か。
一条鉄は長短にあらず、両頭動は自他にあらず。
この展事投機のちから、功夫クフウをうるに、威掩万法イエンマンボウ《威、万法を掩ふ》なり、眼高一世ゲンコウイッセ《眼、一世に高し》なり。
收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門。
さらに收放にあらざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・三門なり。
〔抄私訳〕
「一条鉄か、両頭動か。一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。
」(中略)とある。
「一条鉄」も「両頭動」も「長短にあらず」、「両頭動は自他にあらず」と、
「一」の語も「両」の語も「長短」「自他」に関わらず、
皆「行仏」の上の「一条」「両頭」「長短」「自他」である。
「威掩万法」とは、「万法」に掩オオわれるというのである。
これは「行仏威儀」に掩われているのである。
結局、「行仏威儀」の道理の外にない意味合いである。
「眼高一世」とは、尽十方界は沙門の一隻眼であり、
眼の外に何もないところをしばらく「高」と言うのである。
「収放」の言葉は、「光明」について出てきたのである。
仏を置いて、この上に「光明」を「放つ」時があり、
また「収める」時があるように思いがちであるが、
今の「光明」はそういうことではない。
雲門の言葉に、「いかなるか光明」とあった時、雲門が大衆に替わって《傍注:代に改めるのはいけない》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言われた。その言葉を今引き出されたのである。
結局、今の「光明」は、一般に思っている照らすものと照らされるものの
ことではない。日月珠光等の光の類ではない。
「僧堂・仏殿・廚庫・山門」の当体を指して「光明」と言うのである。
この道理こそ「収放をさへざる光明」とも言われ、
「収放にあらざる光明あり」とも言われるのである。
「光明」が究め尽くす道理はこのようである。
「光万象を呑み光何処に帰る」などという祖師の言葉が、
いかにも符合するのである。
〔聞書私訳〕
/「威掩万法なり」と言う、これは三界を一心に「威掩」する《ことごとくおく》というほどのことである。
「一条鉄」「両頭動」の「展事投機」を「威掩万法」と取る。
「眼高一世」とは尽十方界の眼の意である。
/「收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言えば、今の「不知有」「却知有」も、「僧堂・仏殿」に心得を合わせるべきである。
ごちゃまぜにして、「三世諸仏」も「貍奴白牯」も同じと言えないことは、
すぐにこの下の言葉に、「この眼睛あるは、法の行仏をとき、
法の行仏をゆるすなり」とあるので、これを受けて心得るべきである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
この行仏は、一条の鉄か、両頭が動くのか〔、と参究するのだ〕。
(一条鉄か、両頭動か。)
一条の鉄といっても、長短を超えており行仏でずっと貫くことである、
両頭が動くといっても、自他があるわけではない。
(一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。)
この師家と学人が、行仏に力を尽くすと、
行仏の威儀が万法を掩い、三界を一目で見透すのである。
(この展事投機のちから、功夫をうるに、威、万法を掩ふなり、眼、一世に高しなり。)
収束と放散を妨げない光明がある、
僧堂・仏殿・廚庫・三門みなそれぞれの光明を放っている。
(收放をさへざる光明あり、僧堂仏殿廚庫三門。)
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