〔『正法眼蔵』原文〕
その明上又明メイジョウユウメイの明は、行仏に彌綸ミリンなり。
これ行取に一任せり。
この任々の道理、すべからく心シンを参究すべきなり。
その参究の兀爾コツジは、万回バンカイこれ心シンの明白メイビャクなり。
三界ただ心の大隔ダイカクなりと知及チギュウし会取エシュす。
この知及・会取、さらに万法なりといへども、
自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是ベンゼなり。
〔抄私訳〕
「その明上又明の明は・・・中略・・・当人の活計を便是なり。」とある。
「行仏」を指して、「明上又明の明」を言うのである。「明尽」(明らめ尽くす)と言われる明のことである。この「行取」とは、「行仏」の行であり、
「行仏」に任せているのである。
この「任々」は、生にも死にも明にも当たるのである。
「行取」ばかりに限らないという意味合いである。
そこで先ず心を参究すれば、どんなことも解脱しているという様子である。
「その参究の兀爾」は、兀坐ゴツザなどと坐禅のことを言うのである。
「万回これ心の明白なり。三界たゞ心の大隔なりと知及し会取す」とは、
「三界」という時は、唯一心の心は「大隔」と言われる。たとえば、仏性に狗子の「大隔なり」というほどの義である。また、「一方を証すれば、一方はくらし」という意味合いであり、至って親切な「大隔」である。一般に、隔つという言葉を使うのは、これを置いてあれと隔たっていると理解するが、ここでは行き着く所が一つである道理を「大隔」と言うのである。
「知及」も「会取」も、人がいて「知及・会取」する義ではない。
万法が万法を「知及し会取する」のである。
「自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是なり」とは、「自己の家郷」とは万法の当体を「家郷」と言うのである。「当人の活計」とは自己を示すのである。今の「自己」とは、たとえば、生とも死とも、心とも三界とも言うのを、「自己」と言うのである。生の「自己」、死の「自己」、心の「自己」、三界の「自己」である。
〔聞書私訳〕
/「任々の道理」は、仏を仏に任せ、心を心に任せ、三界を三界に任すのである。
/「三界ただ心の大隔なり」とは、「三界」を一心と言い、「隔」はそのまま「三界」であるからこのように説く、これが「大隔」であり、「任々」であり、心々なのである。
/「自己の家郷」とは、解脱の自己である。「行取」するから万法と自己と同じである。
/「当人の活計を便是なり」と言う。
この「当人」は解脱人であり、行仏(行仏という名の仏)である。
/「古今のときにあらず」と言っても、「行仏の威儀」とは、「生死」は元来とも言わず、今とも言わないから、「古今のときにあらず」と言うのである。「了生達死」とはこのようなことである。
「行尽明尽、これ強為の為にあらず、迷頭認影に大似なり。回光返照に一如なり。」とある。
/「迷頭認影」とは、自分の頭の影を知らないで怪しみ、怪しむけれども自分の頭の影であるからこのように説くのである。
/「大似なり」とは、別の物であれば似ていると言うが、これは同じ物を「大似」と言うのである。
「回光返照」は「明上又明メイジョウユウメイ」であり、これが「行仏」である。
「悟上得悟の漢」と、「迷中又迷の漢」は、同じことである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
その明らかな上にさらに明らかな明るさは、
行仏(今の様子の通りにいる行仏という名の仏)によって天地に満ち満ちている。
(その明上又明の明は、行仏に彌綸なり。)
これは行仏になり切っているのである。
(これ行取に一任せり。)
生も死も行仏に任せきるというその心をよく参究すべきである。
(この任任の道理、すべからく心を参究すべきなり。)
その参究をゆるぎなく行うならば、万法マンボウ(あらゆるもの)は
心であることが明らかになるのである。
(その参究の兀爾は、万回これ心の明白なり。)
三界(三つの迷いの世界)という時は心は顔を出さず、
心という時は三界は顔を出さないと知り会得するのである。
(三界ただ心の大隔なりと知及し会取す。)
これを知り会得してみると、改めて万法だといっても、
自己の心を行じたのであり、当人の日常の生活がすなわち行仏なのである。
(この知及会取、さらに万法なりといへども、
自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是なり。)
合掌
追伸:よろしければ達磨大師と皇帝の問答(信心銘)クリックして動画をご覧ください。
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