〔『正法眼蔵』原文〕
花開の功徳あり、世界起の功徳あり。
かつて間隙カンゲキなきものなり。
このゆゑに自他に迥脱ケイダツあり、往来に独抜あり。
即往兜率天トソツテンなり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。
即往安楽アンラクなり、即来安楽なり、即々安楽なり。
即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。
即打破百雑砕ヒャクザッスイ安楽兜率なり、即々把定放行安楽兜率なり、
一口イッコウ吞尽ドンジンなり。
〔抄私訳〕
「上天にしては化天す、人間にしては化人す。花開の功徳あり、世界起の功徳あり。かつて間隙なきものなり。」とある。
「上天化天」の「化」と言えば、仏は教化する主で、天上界・人間界で衆生を教化されると心得るところを、今の「化」というのは「上天」を指して「化」と言うのであり、「人間界」を指して教化と言うのである。だから、彼のそれぞれの世界に教化する仏がおられて衆生を教化するのだと心得てはならない。
この「化」は教化するもの・教化されるものがない化である。この道理を「花が開き世界が起こる」と言われるのである。これを「間隙無し」とも説くのである。『法華経』に、「一切衆生を化して仏道に入らしめん」の「化」も、そのまま衆生を「化」と心得るのである。衆生と仏を置いて、仏が衆生を教化されるとは心得ないのである。
「このゆゑに自他に迥脱あり、往来に独抜あり。即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。即往安楽なり、即来安楽なり、即々安楽なり。即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。即打破百雑砕安楽兜率なり、即々把定放行安楽兜率なり、一口吞尽なり。」とある。
「自他」といっても「迥脱あり」とは、解脱の上の「自他」である。「往来」というのも「独抜」であり、解脱の「往来」である。だから、「即往兜率天」と言い、「即来兜率天」ともいう道理が、又、「即々兜率天」と言われるのである。
又、「兜率天」の言葉を改めて、「即往安楽なり」「即来安楽なり」「即々安楽なり」と言う。これは、「兜率天」は三界の内、「安楽」国は三界の外などと区別して思うであろうが、「兜率」も「安楽」も只一つであり、改めて三界の内・三界の外と論ずることはしないのである。
又、少なくとも「兜率」「安楽」が、それぞれ別である意味合いがあってはならないから、ここでは「即迥脱兜率」「即迥脱安楽」と言うのである。
又、「即打破百雑砕安楽兜率」とは、「百雑砕」とは物を打ち砕いてたくさんになったような意味合いである。つまり、千万回打破して粉々に打ち砕くことであるが、只これは「行仏威儀」である、という意味合いである。「把定放行」も「安楽兜率」ほどの姿である。
又、「一口吞尽」とは解脱独立の言葉である。又、物も交ぜず只一口に吞み尽くした意味合いである。
〔聞書私訳〕
/「即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり」と言う。
往来の歩みでない所を「即々」と言うのである。仏は去来することがないから、この往来は、娑婆世界から「兜率」「安楽」(極楽浄土)等へ往生オウジョウするというのは、取るに足りない我々の見方に対して説くのである。
「安楽」国まで説けば広大無辺際であろう。そうであれば、区域や際限は立てることができないから、「即々」と言うのである。「安楽」国に往生する時には、我々の依正エショウ(環境・身心)は共に往生するのであろうか、来迎と言う時は「安楽」国などの仏が来られるのであろうか。仏は身土不二(身心と環境は一つ)であり、依正一如(環境と身心は一つ)であるからである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
行仏は、直ちに兜率天(弥勒菩薩の浄土)に往くことができ、直ちに兜率天より来ることができ、直ちにそのまま兜率天なのである。
(即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。)
行仏は、直ちに極楽浄土に往くことができ、
直ちに極楽浄土より来ることができ、そのまま極楽浄土なのである。
(即往安楽なり、即来安楽なり、即々安楽なり。)
そのまま解脱の兜率天であり、そのまま解脱の極楽浄土なのである。
(即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。)
直ちに極楽浄土や兜率天を粉々に砕いてみても、
その砕かれたものもやはり極楽浄土や兜率天なのであり、
(即打破百雑砕安楽兜率なり、)
直ちに取り上げてみても、手放してみても、
極楽浄土や兜率天であり、
(即々把定放行安楽兜率なり、)
〔行仏から見ると、どこもかしこもみな行仏で、〕
全世界は行仏の一口に吞み込まれて跡かたがないのである。
(一口吞尽なり。)
合掌
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