スキップしてメイン コンテンツに移動

正6-18-2『第六行仏威儀』第十八段②〔全世界は行仏の一口に吞み込まれて跡かたがないのである〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

花開の功徳あり、世界起の功徳あり。


かつて間隙カンゲキなきものなり。


このゆゑに自他に迥脱ケイダツあり、往来に独抜あり。


即往兜率天トソツテンなり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。


即往安楽アンラクなり、即来安楽なり、即々安楽なり。


即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。


即打破百雑砕ヒャクザッスイ安楽兜率なり、即々把定放行安楽兜率なり、

一口イッコウ吞尽ドンジンなり。



〔抄私訳〕

「上天にしては化天す、人間にしては化人す。花開の功徳あり、世界起の功徳あり。かつて間隙なきものなり。」とある。

「上天化天」の「化」と言えば、仏は教化する主で、天上界・人間界で衆生を教化されると心得るところを、今の「化」というのは「上天」を指して「化」と言うのであり、「人間界」を指して教化と言うのである。だから、彼のそれぞれの世界に教化する仏がおられて衆生を教化するのだと心得てはならない。


この「化」は教化するもの・教化されるものがない化である。この道理を「花が開き世界が起こる」と言われるのである。これを「間隙無し」とも説くのである。『法華経』に、「一切衆生を化して仏道に入らしめん」の「化」も、そのまま衆生を「化」と心得るのである。衆生と仏を置いて、仏が衆生を教化されるとは心得ないのである。


「このゆゑに自他に迥脱あり、往来に独抜あり。即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。即往安楽なり、即来安楽なり、即々安楽なり。即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。即打破百雑砕安楽兜率なり、即々把定放行安楽兜率なり、一口吞尽なり。」とある。


「自他」といっても「迥脱あり」とは、解脱の上の「自他」である。「往来」というのも「独抜」であり、解脱の「往来」である。だから、「即往兜率天」と言い、「即来兜率天」ともいう道理が、又、「即々兜率天」と言われるのである。


又、「兜率天」の言葉を改めて、「即往安楽なり」「即来安楽なり」「即々安楽なり」と言う。これは、「兜率天」は三界の内、「安楽」国は三界の外などと区別して思うであろうが、「兜率」も「安楽」も只一つであり、改めて三界の内・三界の外と論ずることはしないのである。


又、少なくとも「兜率」「安楽」が、それぞれ別である意味合いがあってはならないから、ここでは「即迥脱兜率」「即迥脱安楽」と言うのである。


又、「即打破百雑砕安楽兜率」とは、「百雑砕」とは物を打ち砕いてたくさんになったような意味合いである。つまり、千万回打破して粉々に打ち砕くことであるが、只これは「行仏威儀」である、という意味合いである。「把定放行」も「安楽兜率」ほどの姿である。


又、「一口吞尽」とは解脱独立の言葉である。又、物も交ぜず只一口に吞み尽くした意味合いである。


〔聞書私訳〕

/「即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり」と言う。

往来の歩みでない所を「即々」と言うのである。仏は去来することがないから、この往来は、娑婆世界から「兜率」「安楽」(極楽浄土)等へ往生オウジョウするというのは、取るに足りない我々の見方に対して説くのである。


「安楽」国まで説けば広大無辺際であろう。そうであれば、区域や際限は立てることができないから、「即々」と言うのである。「安楽」国に往生する時には、我々の依正エショウ(環境・身心)は共に往生するのであろうか、来迎と言う時は「安楽」国などの仏が来られるのであろうか。仏は身土不二(身心と環境は一つ)であり、依正一如(環境と身心は一つ)であるからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

行仏は、直ちに兜率天(弥勒菩薩の浄土)に往くことができ、直ちに兜率天より来ることができ、直ちにそのまま兜率天なのである。

(即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。)


行仏は、直ちに極楽浄土に往くことができ、

直ちに極楽浄土より来ることができ、そのまま極楽浄土なのである。

(即往安楽なり、即来安楽なり、即々安楽なり。)


そのまま解脱の兜率天であり、そのまま解脱の極楽浄土なのである。

(即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。)


直ちに極楽浄土や兜率天を粉々に砕いてみても、

その砕かれたものもやはり極楽浄土や兜率天なのであり、

(即打破百雑砕安楽兜率なり、)


直ちに取り上げてみても、手放してみても、

極楽浄土や兜率天であり、

(即々把定放行安楽兜率なり、)


〔行仏から見ると、どこもかしこもみな行仏で、〕

全世界は行仏の一口に吞み込まれて跡かたがないのである。

(一口吞尽なり。)



                       合掌


                         

ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...