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正6-9-3『第六行仏威儀』第九段③〔『正法眼蔵』私訳〕〔すでにこのように行仏に打ち任せている〕

〔聞書私訳〕

/「行・法・身・仏、おのおの承当に罣礙あるのみなり」とは、「行」の「承当」(我がものにすること)が森羅万象の一つ一つに明らかである。この上は「至道無難シイドウブナン(道に至ることに難は無い)は論ずるまでもないことである。「行」が「承当」の時は、「法」も「身」も「仏」も「行」に遮られ、「法」が「承当」の時は、「行」も「身」も「仏」も「法」に遮られるのである。このように遮られるのが脱落である。


/「眼礙」といっても「不見」であるのではなく、「明々たる百草頭」なのである。だから、「不見一法、不見一物と動著することなかれ」という言葉も出てくるのである。


/「這法に若至なり、那法に若至なり」とは、「眼礙」に「明々たる百草頭」であれば、そのままこれを「見一法」「見一物」と使うことができる。この「若至」(このように至る)であれば、「拈来」(つまみ上げ持って来ること)も「明々たる百草頭」〈明らかな真実そのものであるあらゆるもの〉、「拈去」(つまみ上げ持ち去ること)も「明々たる百草頭」、或いは出入もみな「明々たる百草頭」というのである。


/「出門」「入門」を「草」とも使い、無寸土(少しの土も無い)とも使う。


/「世尊密語・密証・密行・密附」とは、この「密」は、秘密の「密」の密かに隠していることではなく、際立って親密であることである。「密附」は付属フショク(仏祖の大法を伝えて後の人に対してその護持を依嘱すること)のことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

すでにこのように行仏に打ち任せているので、

諸法も、諸身も、諸行も、諸仏も、一々が行仏に差し支えがないのである。

(すでに恁麼インモ保任するに、諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり。)

〔諸法・諸行がみな行仏となりきってゆく。〕


行はその行になり切り、法はその法になり切り、身はその身になり切り、仏はその仏になり切り〈罣礙〉、それをしっかり我がものとする〈承当〉だけである。

(この行・法・身・仏おのおの承当ジョウトウに罣礙ケイゲあるのみなり。)


行仏になり切り行仏を我がものとするから、行仏は我れ、

我れが行仏となって脱落するだけである。

(承当に罣礙あるがゆえに、承当に脱落あるのみなり。)


いろいろな草〈諸縁万境〉のために眼が遮られるから、

一切のものが見えなくなり行仏ができなくなると思ってはならない。

(眼礙ゲンゲの明々百草頭なる、不見一法、不見一物と動著ドウチャクすることなかれ。)


こちらもあちらもみな行仏の若至(このように至る)なのである。

(這法シャホウに若至ニャクシなり、那法に若至なり。)


拈じ来るも拈じ去るも、出るも入るも、一切の立ち居振舞いは、

みな同じく行仏の立ち居振舞いなのである。

(拈来拈去、出入同門に行履アンリする、)


世界中どこにも隠れるところがなく、真実は常に顕れているから、

(遍界不曽蔵ヘンカイフスンゾウなるがゆえに、)


釈尊の親密な言葉(柳は緑、花は紅)、親密な証り(山はこれ山と証り、水はこれ水と証る)、親密な行(潜行密用は愚の如し魯の如し)、親密な付嘱フショク(吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、

摩訶迦葉に付属す)などが、みな隠れることなく常に顕れているのである。

(世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。)

〔これらはみな行仏の力である。〕


                          合掌



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