〔『正法眼蔵』原文〕
すでに恁麼インモ保任ホニンするに、諸法・諸身・諸行・諸仏、これ親切なり。
この行・法・身・仏、おのおの承当ジョウトウに罣礙ケイゲあるのみなり。
承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落あるのみなり。
眼礙ゲンゲの明々百草頭メイメイヒャクソウトウなる、
不見一法、不見一物フケンイチモツと動著ドウチャクすることなかれ。
這法シャホウに若至ニャクシなり、那法に若至なり。
拈来拈去、出入同門に行履アンリする、遍界不曽蔵ヘンカイフスンゾウなるがゆゑに、
世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。
〔抄私訳〕
「この行・法・身・仏おのおの承当ジョウトウに罣礙ケイゲあるのみなり。承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落あるのみなり。」とある。
これは、前に解釈されたことと同じであるように思われ、又、道理も違わない。おのおのに一法ずつ究尽して「承当に脱落」する意味合いである。おのおのに一法とは、「行・法・身・仏」等の事である。
「眼礙の明々百草頭なる、不見一法、不見一物と動著することなかれ。這法に若至なり、那法に若至なり。」とある。
「眼礙」(眼が妨げられる)の時節は、眼の外に別の物がないから、「不見一法」(一法を見ず)の意味合いである。ただ、全てが眼であるといっても、又、「見る」という意味がないというわけではないというのである。
その「眼礙」の時の「見る」とはどのようであろうかと言えば、眼が眼である道理によって眼を見ると説くのである。この理が「這法に若至なり、那法に若至なり」となるのである。「這法」「那法」の姿がそのまま眼によって眼を見る道理であるのである。
「拈来」も「拈去」も「出入」も「同門」の上の道理である。「同門に行履する」とは、「行仏威儀」の上で、「拈来拈去」「出入」を心得るのである。この道理は、「行仏威儀」〈今きちっとこの通りある身心のありようを行じる行仏という名の真実のありよう〉の姿が「遍界不曾蔵」〈全世界は何ものも隠すことはなく真実は常に顕れきっている〉の理であるのである。だから、「世尊密語・密証・密行・密附等」は、皆この道理であるというのである。
合掌
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