〔『正法眼蔵』原文〕
しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。
その頭正尾正ズシンビシンに、玉転珠回ギョクテンシュカイの威儀現前するなり。
仏威儀の一隅を遺有ケンウするは、尽乾坤ジンケンコン大地なり、尽生死去来なり。
塵刹ジンセツなり、蓮華レンゲなり。これ塵刹・蓮華、おのおのの一隅なり。
〔抄私訳〕
「出生合道出」とは、生に出るのは道に合して出、「入死合道入」とは、死に入るのは道に合して入るということである。
「合道ガッスル」とは、今の「行仏の威儀」(行仏という名の真実のありようの必ずその通りにある身心の様子)の道に合することである、生死は一緒に道に合し、出入も同じく一緒に道に合することである。
だから「頭正尾正」(始めも正しく終わりも正しい)も「玉転珠回」(玉が転がり珠が回る)の道理であると言われるのである。「玉転珠回」とは、共に玉であり、
めぐりまわりただ同じことであり同じ意である。玉が玉を回るのである。「出入」「生死」の道理は、ただ「玉転珠回」の道理なのである。
これは「尽乾坤」「尽生死去来」「塵刹」「蓮華」等をあげて「行仏威儀」を表されるのである。次の段で、「学人おほくおもはく」といってこれを解釈される。文の通りに心得るべきであり、別に子細はない。
〔聞書私訳〕
/「しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり」とある。
「出入」も「生死」も、仏道に合して仏道の高さで言うことを「合道」と言うのである。
/「一隅を遺有する」と言う、「有を遣ヤる」(有を与える)と読む。「一隅」の有をあげて有というだけでない所を「遣有」と言うのである。つまるところ、「有」を「有」と心得るのである。
/「尽乾坤」とは、「出入同門」「出生合道出」等こそ「尽乾坤」であり、一国或いは一州と思ってはならないと言う。「這頭那頭不用シャトウナトウフヨウ」(こちらでもいらない、あちらでもいらない)ほどの時に、「出入同門」と使うのである。
「錯々」という道理は、「如何なるかこれ聖ショウ」と問う時も、禅床より下りて叉手シャシュ(両手を重ねて胸の前に保つ)して立ち、「如何なるかこれ凡」と問う時も、禅床より下りて叉手して立ち、「凡聖相去る事如何」と問う時も、叉手して立つほどの言葉である。
/「尽生死去来なり、塵刹なり、蓮華なり、これ塵刹・蓮華、おのゝゝ一隅なり。」とは、この「塵刹」は塵々刹々といって、多い数にも使う。又、国土世界にも使う事があり、塵労といってけがれている事にも使う。「蓮華」は泥に染まらない清浄なものに対しても言う。「塵刹なり、蓮華なり」と使うのは、同じ言葉である。一塵というのも法界という意味合いである。
「行仏威儀」の時は、「塵刹」も「蓮華」も「玉転珠回」の頭正尾正なのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
知るといい、生れるということは道と一緒に生まれることであり、
死ぬということも道と一緒に死ぬことである。
(しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。)
この生死は始めから終わりまで道を外れることはなく、
玉が転がり珠が回るように自由自在に仏の威儀が現れるのである。
(その頭正尾正に、玉転珠回の威儀現前するなり。)
仏の威儀が一隅の存在を与えるのは、全天地であり、全生死・全去来である。
穢土であり、浄土である。
(仏威儀の一隅を遺有するは、尽乾坤大地なり、尽生死去来なり。塵刹なり、蓮華なり。)
この穢土も浄土も、仏の威儀のそれぞれの一隅なのである。
(これ塵刹・蓮華、各々の一隅なり。)
合掌
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