/「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数なり
《我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、
また上の数に倍せり》。」とある。
「菩薩の道」の「成る所」は、必ずしも「寿命」だけを挙げるべきではなく、
不審である。もっとも、これは『法華経寿量品』の本文で、
釈迦の寿命を明らかにして久遠実成(久遠の昔に成仏した)の仏であることを表すために「寿命」と言うのである。
ただ、「成る所」の眼晴とも「成る所」の鼻孔と言っても、同じ事である。
又、「寿」といっても我々の命を指すように心得てはならず、
「行」がそのまま「寿命」でもある。
「菩薩行」と「菩薩の寿命」は、まったく同じ事である。
/「我本行菩薩道」の我れは吾我(自我意識の吾)ではなく、「菩薩道」について「我れ」と言うのである。
「本行」の行は今の「行仏」(行仏という名の仏)の行である。
また、誰の「寿命」と言い難く、誰の「本行」とも言うことはできない。
この時は、仏も菩薩も勝劣がないのである。
また、仏の字を菩薩に取り替えて我本行仏道(我れ本より仏道を行ず)と心得るのである。
「また上の数に倍す」の「上」は、無上というのであり、
下に対しない大大超などという程の「上」である。
/「我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横なり」とは、
上に、「化機ケキ漏泄ロセツすること、互時なり、互方なり、互仏なり、互行なり」(衆生教化のはたらきが漏れる、それが二十四時間にわたり、あらゆる方角に行きわたり、
三世十方の諸仏に行きわたり、一切の行に行きわたるのである)という意である。
諸乗・一仏乗などということは、この「一条鉄」「抛却」のことである。
三世の「抛却」を「百年」と指すのである。
/「修証は染汚にあらず」と言う、「不染汚」(何にも染め汚されないこと)は必ずしも修行のみではなく、「行仏」の「不染汚」もあるのである。
/「無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず」とは、
悟りを待たず、又、「染汚」でないために、仏も人もないのである。
これは、身土不二(身体と国土は一つである)と言えば「無仏無人」の意である。
また、「修証は無にあらず修証は有にあらず」と言った時に、
無を解釈する言葉として「無仏無人」と言い、有を解釈する所で「処在」とも言い、
「百千万あり」とも使うのである。
別に、「無仏無人」の所があり、「百千万」の別の物があるのではない。
有無の言葉を使う事は、この禅門の道理をよくよく心得るべきである。
/「行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるにはあらず、
この不染汚、それ不無なり」とある。
「この不染汚、それ不無なり」と言う時に、「不染汚」の解釈と思われた。
ことの起こりは、「修証はなきにあらず染汚することを得じ」と言い、
「不染汚」をまた「不無」と言う時に、「行仏」「修証」「不染汚」の三方を等しくし
たのである。だから、「行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるには
あらず」と言うのである。
合掌
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