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正5-8-2『第五即心是仏』完 第八段後半〔即心是仏とは発心・修行・菩提・涅槃する仏のことである〕

〔『正法眼蔵』原文〕

いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。


釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。


過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、

かならず釈迦牟尼仏となるなり。


これ即心是仏なり。



〔聞書私訳〕

/「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり、未だ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。」と言う、

このように説くから、「汝今悉く、見聞覚知の性を具せり、更に別の仏無し」とも言い、「即ち身は無常なり、其の性は常なり」などと言う外道の考えとは異なるのである。「発心」といっても、まだ発オコしていない・已に発したということではない、「不染汚」であるのだから。


/又、「即心是仏」は、四字がみな「将錯就錯ショウシャクジュシャク(あやまりを将って、あやまりに就く)なのである。「将錯就錯」は世間と出家とで特に理解を区別すべきである。世間の心得方とは、あやまりをあやまりと知り、そのままあやまりをあやまりに付け、正見(正しいものの見方)を正見と知るのである。あやまりをあやまりでないと意地を張る気持ちはないのである。これも普通の世間の気持ちである。


/出家の心得方とは、出家にあやまりという事がないから、正見と肩を並べて、あやまるとあやまらないとの、二つのものには言わず、只、正見を用いて正見に従うほどのことを、「将錯就錯」と使うのである。「不染汚」の法などということが、「将錯就錯」であり、すべて仏法では 「悉有仏性」を心得るのも、今の「将錯就錯」の意味である。「欲知仏性」(仏性を知らんと欲オモはば)というのも、「定慧等覚明見仏性」(定と慧と等しく学べば、明かに仏性を見る)というのも、「将錯就錯」の道理なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

いわゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏である。

(いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。)


釈迦牟尼仏と言えども、

自分の今の様子によって自分の真相がはっきりした仏〈即心是仏〉である。

(釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。)


過去・現在・未来の諸仏は、どの方もみな仏となる時は、

必ず釈迦牟尼仏が自覚をした時の様子を自覚して仏となるのである。

(過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。)


これが即心是仏である。

(これ即心是仏なり。)



〔『正法眼蔵』原文〕

正法眼蔵即心是仏第五

爾時ジジ延応元年五月二十五日在雍州ヨウシュウ宇治郡観音導利院興聖宝林寺示衆

干時トキニ寛元三年乙キノト七月十二日在越州吉田県大仏寺侍者寮書写之 懐奘エジョウ 


〔『正法眼蔵』私訳〕

正法眼蔵涅槃妙心第五即心是仏の巻終わる

その時西暦1239年5月25日京都府宇治郡観音導利院興聖宝林寺において衆僧に示す。

時に西暦1245年7月12日福井県吉田郡永平寺侍者寮においてこれを書写する。懐奘



                     合掌



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