スキップしてメイン コンテンツに移動

正5-1-1『第五即心是仏』第一段①〔即心是仏:自分の今こういう風にある様子〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

 仏々祖々、いまだまぬかれず保任ホニンしきたれるは、即心是仏ソクシンゼブツのみなり。

しかあるを、西天サイテンには即心是仏なし、震旦シンタンにはじめてきけり。

学者おほくあやまるによりて、将錯就錯ショウシャクジュシャクせず。

将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落レイラクす。



〔抄私訳〕

「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり」とある。

 この「即心是仏」の言葉を、一般には意識活動をする心を指して、これが即ち仏であるというように理解している。


また、「仏々祖々」はこの「即心是仏」を「保任」(大事にする)すると言えば、「即心是仏」の道理を、「仏々祖々」は学ばれる人と思われる。しかし、どちらも道理に合わない。また、「即心是仏」という「即」の字は、ただ言葉であり、「是仏」という「是」も、「仏」を指して言うためと思われるが、そうではない。


この「即心是仏」の「即」も「心」も「是」も「仏」もそれぞれ究尽する道理であり、後で委しく述べている。


〔聞書私訳〕

/「即」を「仏」と使い、「是」を「仏」と使う。「即心是仏」と言うとき、「是」の字が欠けたからといって足らないことはない。「即」と「心」と「是」と「仏」は、ただ同じほどの意味であり、字である。


「衆生の慮知念覚」(我々の意識活動働き)の心を「即」と言うのではない。「三界唯心」(三界はすべて心である)の心であり、「即」である。「三界」(衆生が流転する三つの迷いの世界)を「三界」と説くのである。「即心是仏」の四つの字はただ一字である。「一心一切法・一切法一心」(一心は一切の存在である・一切の存在は一心である)ほどの事である。


/何度聞いても、「即心是仏」と言えば、「心」の字と「仏」の字が本体である感じがするが、これは迷いである。

仏性を論じる時、「一切衆生、悉有仏性」(一切衆生は、すべて仏性である)と言う。

「仏」の語を言った時は、「悉有仏性」だと理解したが、今の「即」と「是」も同じことである。「即」という字と「是」という字は、「仏」と使うよりも意味が広いのである。


「十如是ジュウニョゼ」(すべてのものに具わっている十種の存在のありよう)を経で説く時は、相(形相)(本質)(形体)(能力)にみな如是(かくのごとし)を具える。今の「即」の字も相性体力につけて言うことができる。すべて「心」だ「仏」だということが大切なのではない。



〔『正法眼蔵』私訳〕

あらゆる仏祖が、片時も離れることなくちゃんとそういう生活をしてきたのは、

自分の今こういう風にある様子〈即心是仏〉だけである。

(仏々祖々、いまだまぬかれず保任ホニンしきたれるは、即心是仏ソクシンゼブツのみなり。)




                         合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...