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正4-12-3『第四身心学道』第十二段③〔生は柏樹子のごとし:生は樹木のようなものである〕

 

〔『正法眼蔵』原文〕

生は柏樹子ハクジュシのごとし。死は鉄漢のごとし。


柏樹はたとひ柏樹に礙ゲせらるとも、


生はいまだ死に礙せられざるゆえに学道なり。



〔抄私訳〕

これは、生は生であり全機(全ての働きの現れで、あちらとこちらが相対しないということである。死は鉄漢のようだとは、死は又全機の死で、生のように独りで立っている死であるということである。前の意味合いを再びあちらとこちらを関係づけて解釈されるのである。

これは、生・死と柏樹・鉄漢の言葉を入れ替えて、ただ前の生死を説く取り合わせである。


〔聞書私訳〕

/「柏樹・鉄漢の如し」と言う。

これをここで言うべきでもないが、これは、柏樹と鉄漢とを相対して、「如し」と言うのではない。ただ柏樹の全機、鉄漢の全機である。これを「如し」と言うのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

生は樹木のようなものである。

(生は柏樹子ハクジュシのごとし。)

〔生きているということは、向こうに樹木があって見えるということによって今の様子がしばらくあるのです。向こうのものと思って見ていることが、自分の今の様子です。五感というものが私たちに備わっていないと、生きているという気配がなくなるのですね。「カア!」が、この身心が生きている今の様子です。「生は柏樹子ハクジュシのごとし」です。〕


死は鉄でできている人のようなものである。

(死は鉄漢のごとし。)

〔人間は色々と言いますが、鉄でできている人は何があっても何も言わず、一切のものをそのまま頂いてちゃんと生活ができています。そういうものを鉄漢と言うのです。〕


樹木の時はたとえ樹木に邪魔されて樹木の様子しかなくても、

〈どんな時でもその時のその様子しかなく、他の物が出てこないから〉

(柏樹はたとひ柏樹に礙せらるとも、)


生の時は生の様子しかなく死の様子に邪魔されることがないから、

本当の在り様を学ぶことができるのである。

生はいまだ死に礙せられざるゆえに学道なり。)



                         合掌


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