〔『正法眼蔵』原文〕
これを眼晴ガンゼイに団じきたること二三斛ニサンコク、
これを業識ゴッシキに弄ロウしきたること千万端センバンタンなり。
〔抄私訳〕
つまるところ、「心を以て心を学ぶこと」の道理を、「眼晴」とも「業識」とも説くのである。「二三斛(容積の単位、5斗)」の言葉は、あれっ?と聞き耳を立てるような言葉であるが、一二の言葉に滞ってはならない。量り知れないほど多いということであるからである。
又、「眼晴に団じ来たり、業識に弄し来たり」という言葉を、しばらく「二三斛」とも、「千万端」とも使うが、「二三斛」と「千万端」は、ただ同じ事である。数量に依らないから、心の無辺際の道理がどのようにでも使われるのである。
〔聞書私訳〕
/「眼晴に団じ、業識に弄す」とは、心を三界(衆生が流転する三種の迷いの世界)と言う上からには、「眼晴」も「業識」も心ほどのことである。これは、「眼晴」や「業識」を、仏法の上で丸め弄モテアソぶのであるから、「二三斛」も「千万端」というのも、世間で用いる数に入れてはならない。仏性を、真如だ実相だなどと説くのを、「二三斛」とも「千万端」とも言うのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
この不思量底の思量〈この、思量に渡っていない今の様子に居ること〉や非思量〈思量でない実物〉を、仏祖が自己の眼晴(覚明、眼、肝要)として用いてきたことには際限がないのである。
(これを眼晴ガンゼイに団じきたること二三斛コク、)
この不思量底の思量や非思量を、凡夫が業識(業によって生じた意識)としてもてあそんできたことには際限がないのである。
(これを業識ゴッシキに弄ロウしきたること千万端センバンタンなり。)
合掌
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