〔『正法眼蔵』原文〕
このとき、思量して学道す、不思量して学道す。
〔抄私訳〕
この「思量」・「不思量」は、『正法眼蔵第十二坐禅箴シン』の巻で、委しく釈されており、その意味合いである。つまるところ、心の上で、「思量」(思慮分別)とも「不思量」〈思慮分別しない〉とも説くのである。
凡夫の心の上で説く時は、しばらく「思量」する時もあり、又、「不思量」である時もあると「思量」するが、ここでは、心が尽十方世界を究め尽くしているので、「思量」も心、「不思量」も心、「非思量」も心なのである。「不思量」は気が抜けてぼんやりしている心持ちを指して言うなどと、決して心得てはならない。
〔*訳者補足:薬山弘道大師が坐禅されていた後に、ある僧が尋ねた、「岩のように坐って何を思量(思慮分別)しているのですか」。
(薬山弘道大師、坐次ザシに、有る僧問ふ、「兀々地什麼をか思量せん」。)
師の薬山が言った、「この思量していない様子を思量する〈この思量していない様子のままにいる〉のである」。
(師云、「思量箇不思量底」。)
僧が言った、「どうやって不思量底を思量するのですか」。
(僧云、「不思量底如何思量」。)
師が言った、「非思量〈思量でない事実の様子〉である。」。
(師云、「非思量」。)
〔例えば、「ホーホケキョ!」と聞こえる。その後で「あ、今ホーホケキョと鳴いたな、あれはうぐいすだな、・・・」と思量がはたらく。これが、思量で仮構の世界に生きている人間の日常の在り様である。
そうではなく、事実のままにいる。聞こえるまま、見えるまま、香るまま、味がするまま、体感されるまま、思いが浮かぶまま、何がどのように現れようが事実のままにただいる。それが「非思量」である。〕
〔『正法眼蔵』私訳〕
このように修行する時、思量して仏道を修行することがあり、思量しないで仏道を修行することがあるのである。
(このとき、思量して学道す、不思量して学道す。)
合掌
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