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正4-1-2『第四身心学道』第一段②〔修証シュショウはなきにあらず、汚染オゼンすることをえじ〕

 〔『正法眼蔵』原文〕      

南嶽ナンガク大慧ダイエ禅師のいはく、「修証シュショウはなきにあらず、汚染オゼンすることをえじ」。


仏道を学せざれば、すなはち外道ゲドウ・闡提センダイの道ドウに堕在す。


このゆゑに、前仏後仏かならず仏道を修行するなり。


仏道を学習するに、しばらくふたつあり。


いはゆる心をもて学し、身をもて学するなり。



〔抄私訳〕              

これは師の六祖と弟子の南嶽の問答である。一般には、長年の修行の果報として悟りを得ると思いがちであるが、これは、修行を待たず、悟りを期待しない修行であるから、不染汚フゼンナの修証〈思慮分別によって汚されない修行がそのまま悟り〉である。


修行ととるなら修行でないものは何もなく、悟りととるなら悟りの外に何も残らない。だから、不染汚の〈思慮分別によって汚されない〉修証〈修行がそのまま悟り:行為がそのまま結果:目を開けば見える、音がすれば聞こえる:生命活動の実物の様子〉と言われるのである。以下は文の通りである。


これも、「心をもて学し、身をもて学す」と言うからといって、凡夫が具えている思慮分別の心によって仏法を学び、或いは穢れた身によって仏道を修行するように思われ、また一般には、このように理解されるであろうが、そうではない。


ただしばらくこの巻を『身心学道〈身心の在り様がそのまま学仏道である〉と名づけられているので、この「身心」を挙げられているのである。たとえば、法界ホッカイ(尽十方界〉の在り様を学ぶ、眼の在り様を学ぶ、耳の在り様を学ぶ、山の在り様を学ぶ、火の在り様を学ぶ、水の在り様を学ぶなどと、限りなく言えるのである。


また、この身の在り様がそのまま学仏道であり、この心の在り様がそのまま学仏道なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕            

南嶽大慧禅師は言う、「修行がそのまま悟りということがないわけではないが、思慮分別によって修証〈修行がそのまま悟りであること:生命活動の実物の様子〉を汚してはいけない」。

(南嶽大慧禅師いはく、「修証はなきにあらず、汚染することをえじ」。)


仏道を学ばなければ、たちまち外道(仏道以外の教え)や、闡提センダイ(成仏の縁がない者)などの道に落ち込んでしまう。

(仏道を学せざれば、すなはち外道・闡提等の道に堕在す。)


だから、過去の仏も未来の仏も、必ず仏道を修行するのである。

(このゆゑに、前仏後仏かならず仏道を修行するなり。)


仏道を学び習うのに、しばらく二つの方法がある。

(仏道を学習するに、しばらくふたつあり。)


すなわち、心の在り様を学び、身の在り様を学ぶことである。

(いはゆる心をもて学し、身をもて学するなり。)



                               合掌



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