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後半正3-14-4②『第三仏性』 第十四段その4②最終回〔無知な者が、意識のはたらきを仏性とし、本来の自己としているが、笑止千万だ〕


〔聞書私訳〕

/「拕泥滞水」とは、「和光利物というのと同じことである。「向上に道取する」というのは、仏を仏と説くのであり、衆生を仏と言うのではない。


/「作麼生ソモサンならむこれ仏性、還委悉麽カンイシツマ《かえって委悉すや》、三頭八臂サントウハッピ 」とは、そのまま、「如何なるかこれ仏性」〈どんなものも仏性である〉ということを述べたのである。


「いかならむ」というのは、「三頭八臂」である、一頭一臂とも定めないからである。また、「三頭八臂」はただ量りしれない多くの頭、量りしれない多くの臂であり、仏性の面になって、臂とも頭とも言われるのである。つまるところ、「三頭八臂」は、仏性の道理をあれこれと説く意味である。


/「仏性」を説くのに、「蚯蚓」と呼び出し、「斬・不斬」、「一段・両段」、「動・不動」、「莫妄想」、「風火未散」などとある言葉を、「三頭八臂」と言うのだと理解すべきである。取り分け、「三頭八臂」が大切だというわけではない。



〔『正法眼蔵』私訳〕

遙かな過去から、無知な者の多くが、意識のはたらきを仏性とし、本来の自己としているが、笑止千万である。

(無始劫来は、痴人おほく識神を認じて仏性とせり。本来人とせる、笑殺人なり。)


本物の仏性をもう一度言うて聞かせよう。苦悩の泥水にまみれている人を救うために、自らも泥水にまみれるということではないが、垣根・壁・瓦・小石がみな仏性なのである。

(さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫。)

〔これらは妄想のつけようがなく、解脱の境界である。〕


一歩進めて言うと、どんなものもみな仏性である。

(向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。)


さらに委しく言うなら、仏性は頭が三つで臂ヒジが八本なのである。

(また委悉すや。三頭八臂。)

〔百千万境の一々が仏性、一段も両段も、散も未散も、暫時も不暫時も、一つとして仏性でないものはないのである。〕




正法眼蔵涅槃妙心第三仏性の巻が終わる。(正法眼蔵仏性第三)


西暦1243年(1243年) ミズノト正月十九日、これを書写す。

(仁治四年癸ミズノト正月十九日書写之) 

                     懷奘(永平寺二祖)

                改訂版の奥書(再治御本之奥書也)

           

時に西暦1241年10月14日、山城(京都)の観音導利興聖宝林寺にて僧衆に示す。(爾時ニジ仁治ニンジ二年辛カノトウシ十月十四日在雍ヨウ州観音導利興聖コウショウ宝林寺示衆ジシュウ


西暦1258年4月25日、懷奘が改訂版として校正した。

(正ショウカ二年戊ツチノエイマ四月廿五日以再治御本交合了)




                      合掌



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