〔聞書私訳〕
/「いぶかし、蚯蚓阿那箇頭にか在る。この道得は審細にすべし」とある。
/一に非ず・大に非ず・小に非ずというほどのことである。
/私(詮慧和尚)は言う、「『仏性の所在』として知り難いから、これを訊ねるために『いぶかし、仏性阿那箇頭にか在る』と言うのではない。『道得』(仏法の道理を説き尽くした言葉)が『審細』(詳しく細やか)であるのは、『仏性』が『いぶかし』であるから、明見仏性(仏性を明らかに見る)が『いぶかし仏性』である。
『阿那箇頭にか在る』とは、仏性の面目はどれほど無量であろうかと問うものである。これは不知の問いではなく、凝滞ギョウタイ(ものに拘り通じないこと)の問いでもない。だから、『この道得は審細にすべし』と言う」と。
/「仏性斬れて両段と為る・・・」とある。
/この仏性を説くことは『仏性』の巻の全十四段を通してであり、仏性が斬れて十四段とも言うことができる。大体、仏法を説くとすれば、仏性を審細に論じるほかに、また別のことがあるのではない。真如シンニョ(真実ありのままの姿)というのも、実相(ありのままの真実の姿)というのもみな仏性なのである。全七十五巻の今の『正法眼蔵』は、ただこの「仏性」のみを説いているのである。
/仏性の「審細」の一部を挙げるとき、「仏性が斬れて両段と為る、いぶかし、蚯蚓阿那箇頭にか在る、といふべし」ということである。
/「仏性が斬れて両段と為る」は、「仏と性が斬れて両段と為る」と言うか。「仏之與性ブッシヨショウ、達此達彼タッピタッシ」(仏と性と、彼に達し此に達す)であり仏と性とは同じであるから、尚書の道得は「蚯蚓が斬れて両段と為る」である。
/先師(道元禅師)のお示しは、「仏性が斬れて両段と為る」である。「蚯蚓が斬れて両段と為る」は見聞が邪正にわたり、「仏性が斬れて両段と為る」は相伝(代々相伝えること)が古今を超越するのである。また、尚書の道得は、「いぶかし、仏性は阿那箇頭にか在る」であり、先師のお示しは「いぶかし、蚯蚓は阿那箇頭にか在る」である。尚書の道得は、「仏性の所在」を知っているか知らないかをたずねているように見える。
/「いぶかし、仏性は阿那箇頭にか在る」に対する先師のお示しは、「仏性斬れて両段と為る、いぶかし、蚯蚓は阿那箇頭にか在る」とあって、蚯蚓の「いぶかし」が仏性の「いぶかし」に超越することを挙揚コヨウする(仏法を宣揚して、人を導く)。
今更に加えた「審細」の少しばかりを挙げるとすれば、当に言うべきである、「仏性斬れて両段と為る、いぶかし、仏性はどちらに在るのか。蚯蚓斬れて両段と為る、いぶかし、蚯蚓はどちらに在るのか」と。
/「いぶかし、仏性は阿那箇頭にか無き」と言いたい。何も仏性でないものはないからである。
/「『両頭俱に動く、仏性は阿那箇頭にか在る』といふは、俱動ならば仏性の所在に不堪フカンなり(心得ない)といふか」、不動不退(ゆるがず不退転)が仏性なのである。
/私は言う、「仏性はもとより有に非ず・無に非ず・動に非ず・静に非ずであるから、動くところが『仏性の在所』ではない。『仏性の所在』がもし動であれば、仏性も動であるから、『仏性の所在』は動であってはならない。だから、「俱動ならば仏性の所在に不堪なり」とあるのである。
/もし「倶動」であるなら、仏性はどちらの方にあるのか。もし仏性であるなら、どちらの方にあって「倶動」なのか。
/「倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか」とある。
/私は言う、「動の世界は倶に玲瓏であるが、どこに倶動でない所があろうか。このように尋ねるところに、仏性の能所(主客)が玲瓏であり、蚯蚓の斬・動が明らかである。だから、『そのなかにいづれなるべきぞといふか』とは、『是れ何物か恁麼に来る』〈この何ものと呼ばれるあらゆるものは仏性であり、このように現成している〉の道得のように、「そのうちのどちらも」ということである。
「説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ:一物に似せて説くも即ち中アタらず」(本物について言語で説明しようとしても、説明した途端に的外れになる)の言葉を待つ必要はない」と。
合掌
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