〔『正法眼蔵』原文〕
「未審ミシン、仏性在阿那箇頭ザイアナコトウ
《いぶかし、仏性阿那箇頭にか在る》」。
「仏性斬為両段ザンイリョウダン、未審、蚯蚓キュウイン在阿那箇頭
《仏性斬れて両段と為る、いぶかし、蚯蚓阿那箇頭にか在る》」
といふべし。
この道得は審細にすべし。
「両頭倶動リョウトウクドウ、仏性在阿那箇頭
《両頭倶に動く、仏性阿那箇頭にか在る》」といふは、
俱動ならば仏性の所在に不堪フカンなりといふか。
俱動なれば、動はともに動ずといふとも、
仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか。
〔抄私訳〕
・/「両頭倶に動く、仏性阿那箇頭にか在るといふは、俱に動くならば仏性の所在に不堪なりといふか、俱に動くなれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか」と言うことである。文の通りに理解すべきである。
「動は俱に動ずといふとも、仏性の所在はその中に何れなるべきぞといふか」とは、一方が動かず一方が動くならば、この疑問もあるはずがなく、動く方に仏性が有るとはっきりと決めることができる。
「両頭倶動」するからには、仏性が斬れて二つになるものではないから、どちらに仏性はあるかと、尚書の問いは理解できるであろうが、これはどう考えても偏った考えであり、棄て置くべき考えである。ここで、
〔『正法眼蔵』私訳〕
「はて、仏性はどちらにありますか」と尚書は言う。
(「未審、仏性在阿那箇頭」。)
これはむしろ「仏性が斬れて二つとなりました、
はて、ミミズはどちらにありますか」と言うべきである。
(「仏性斬れて両段と為る、いぶかし、蚯蚓阿那箇頭にか在る」といふべし。)
この仏法を説き尽くした言葉は、詳しく細やかに学ぶべきである。
(この道得は審細にすべし。)
〔「阿那箇頭にか在る」とは、「仏性の面目はどれくらい無量であろうか」と言ったのである。これは不知の問いではなく、疑滞ギョウタイ(ものに拘り通じないこと)の問いでもないから、「この道得は審細にすべし」と言うのである。〕
尚書が「二つが倶に動いています。仏性はどちらにありますか」とは、倶に動くなら、仏性のありかを心得ないと言うか。
(「両頭倶に動く、仏性阿那箇頭にか在る」といふは、俱動ならば仏性の所在に不堪なりといふか。)
合掌
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