〔『正法眼蔵』本文〕
いはんや欲識庵中不死人ヨクシキアンチュウフシニン、豈離只今這皮袋キリシキンシャヒタイ
《庵中不死の人を識らんと欲オモはば、豈アニ只今イマのこの皮袋を離れんや》なり。
不死人はたとひ阿誰アスイなりとも、いづれのときか皮袋に莫離マクリなる。
故犯コボンはかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋トウニュウシャヒタイ、かならずしも知而故犯チニコポンにあらず。
知而チニの故に故犯コボンあるべきなり。
〔抄私訳〕
・「庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや」云々。
これは石頭和尚の『草庵歌』である。「庵中不死人」とは石頭のことである。「尽十方界真実人体」〈尽十方世界は真実なるこの身心である〉の人を「不死人」と指すのである。
「只今のこの皮袋」というのも、この石頭の姿である。今「皮袋」という言葉が出てくるので、この石頭の言葉を取り出されるのである。石頭に限るべきではなく、「たとひ阿誰なりとも、皮袋に莫離なる」という意である。
・「故犯はかならずしも入皮袋にあらざれども、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず、知而の故に故犯あるべきなり」云々。
これは、「故犯」であるならば「故犯」、「入皮袋」であるならば「入皮袋」、「撞入」であるならば「撞入」であるというのである。例えば、「一方を証すれば、一方はくらし」という意である。
だからといって、「故犯」を賞め「入皮袋」を捨て置こうというのではない。だから、「知而の故に故犯あるべきなり」と言うのである。
〔聞書私訳〕
/「庵中不死の人を識らんと欲はば」とは、不死といえば生死に流されない人である。生死を離れれば、庵の中に居ることはできないから、庵も世間で言う庵ではなく、人も尽十方界真実人体の人である。庵も解脱の庵、尽十方界なのである。
「豈只今の這皮袋を離れんや」というこの「這皮袋」は我々のことである。それならば、また、「不死人」とは言えないから、「只今の這皮袋」を「不死人」と知れば、「這皮袋」の方より「不死人」と知るのである。「這皮袋」がなければ知られないから、「這皮袋」を離れるのである。
/「皮袋に莫離なる」とあるときに、離れないように思われるけれど、どんな時に離れることがなかろうかと言うと理解すべきである。「莫離」という言葉は、「仏性」であり、「狗子」なのである。
/「知而」(知りながら)は、「庵中不死の人を識らんと欲はば」にあたる。「故犯」(ことさらに犯す)は、「豈只今の這皮袋を離れんや」と言うことである。もっとも、結局、「知」が「犯」であるから「知」だけである。この「知」は、邪見・妄見の知ではなく、「犯」も誤りをおかすという意味の犯ではない。だから「知而」であるから「故犯」と言われるのである。
/「犯」とひとまず言われるのは、仏性でありながら狗子と言われるところを指すのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
まして、庵の中にいる不死の人のことを知ろうと思えば、不死の人はこの皮袋を決して離れないのである。(いはんや、庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんや》なり。)
〔一般に、皮袋のほかに不死の仏性があると思われているが、そんなものはない。この皮袋が不死の仏性なのである。〕
庵の中の不死の人が、たとえ誰であろうとも、決してこの身体を離れてあるのではない。
(不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。)
〔各人の身体が、直に不死の仏性である。〕
犯したからその罪によって、皮袋に入った、犬になったというわけではない。
(故犯はかならずしも入皮袋にあらず。)
〔犯すは犯すだけ、入皮袋は入皮袋だけで完結する。〕
この皮袋に入るというが、必ずしも知っていながらことさらに罪を犯したからこの皮袋に入ったのではない。
(撞入這皮袋、かならずしも知而故犯にあらず。)
〔仏性がそのまま皮袋であることを撞入と言う。〕
知っているから〈仏性であるから〉、ことさらに犯す〈仏性である〉ことができるのである。
(知而の故に故犯あるべきなり。)
〔「応に住する所が無いから、其の心を生ずる」(応無所住、而生其心)と同じような意である。〕
合掌
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