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正3-12-1④後半『第三仏性』第十二段その1④後半〔趙州は言う、「犬に犬の業識があるからだ」〕

 〔聞書私訳〕

/「業識有」(業識としてのありよう)とは、第六段に「常聖これ無常なり、常凡これ無常なり、常凡聖ならむは仏性なるべからず」聖者は常に聖者でありながら無常であり、凡夫は常に凡夫でありながら無常である。常に凡夫である、或いは常に聖者であるというだけであるなら、仏性ではないのである)というように心得るのである。


業識(業を縁として生じた識)がまだ残っているけれど、仏性であるというのではない。そのまま「業識有」と言われる時が仏性であるというのである。


/「業識いまだ狗子を会せず」とは、「業識」の不会(知らない)は「狗子」であるというのである。


「狗子いかでか仏性に逢はん」とは、「狗子」の不逢(逢わない)は「仏性」であると心得るのである。「一方を証するときは一方はくらし」と説くように、「業識」とも「仏性」とも「狗子」とも言われるのである。


/双放双収すとも」とは、会不会〈会は不会である〉の意味を述べるのである、会(知る)も不会(知る)も、「業識の始終」であるから。「双放」という言葉は「業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性に逢はむ」という言葉に当たり、「双収」という言葉は、「狗子無仏性」の「無」に当たる。「業識有」「為他有」等に当たるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

趙州は言う、「犬に犬の業識があるからだ」と。

(趙州いはく、「為他有業識在《他に業識の在ること有るが為なり》」。)

〔これは、業識(業を縁として生じた識)のほかに仏性はないということである。〕


この言葉の意味は、「犬としてのありよう」は「業識」であり、仏性であるということである。

(この道旨は、「為他有」は「業識」なり。)


「業識としてのありよう」が、「犬としてのありよう」であるとしても、犬も「無」であり、仏性も「無」である。

(「業識有」、「為他有」なりとも、狗子無、仏性無なり。)


業識は未だ犬を知らない、犬の全身が仏性であるから犬は仏性に逢いようがないのである。

(業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。)

〔湯は水を知らないように、犬と仏性は一つだから逢いようがない。〕


たとえ犬と仏性が、お互いに知っていても知らなくても、やはりこれは業識の全体である、即ち仏性の全体なのである。

(たとひ双放双収すとも、なほこれ業識の始終なり。)



                         合掌

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