〔『正法眼蔵』本文〕
黄檗いはく、「十二時中不依倚一物フエイイチモツ」といふ宗旨シュウシは、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。
不依倚一物、これ十二時中なるがゆゑに、仏性明見なり。
この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。
いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏タナリに十二時のあるか、白銀ビャクゴン世界の十二時のしばらくきたれるか。
たとひ此土シドなりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。
すでに十二時中なり、不依倚なるべし。
〔抄私訳〕
・次に、「黄檗いはく、十二時中不依倚一物といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり」と言う。これは大変理解しがたくこれは一体何事かと思われるが、これも十分理解すれば、いかにもその理由がある。国土山河・日月星辰をはじめ自然界のものはみな仏性であるから、この「十二時」が仏性以外の物であるとは心得られず、この「十二時中」がすなわち仏性なのである。
仏性はものを置いてそれに依倚(依りかかる)・不依倚(依りかからない)を論じるものではない。ただ仏性の道理は不依倚であり、ただ第七段の「汝欲見仏性先須除我慢」(汝仏性を見んと欲はば先ず須らく我慢〈無い「我」を有ると認めおごり高ぶる考え〉を除くべし)の道理であり、また、第三段の「山河大地、皆依建立。三昧六通、由茲発現」(自然界はすべて仏性の現成であり、三昧六通も仏性によって現れるのである)等の道理と違わないのである。仏性であるから「不依倚」であり、「不依倚」であるから仏性であると言うのである。
「十二時」は、例えば人間界の「十二時」でもあり、三世・九世・尽十方界もみな「不依倚」の道理なのである。
・また、「十二時中なるがゆゑに、仏性明見なり」(十二時中であるから、仏性の明見である)と言う。「明見仏性」と言えば、やはりどうしても見るものと見られるものによって、「十二時中」が仏性であることがはっきりしなくなる。仏性の明見(仏性明見)と言うときは、ただ仏性が明見である道理が明らかであり、見る・見ないに関わらない道理が明らかになるのである。
・また、「この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん」と言って、人間の「十二時」、他那裏(他の世界)の「十二時」、或いは白銀世界(浄土)の「十二時」まで挙げられる。これはつまるところ、上に挙げられるところは、どこの「十二時」であってもみな仏性であるという意味合いである。だから、「たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり」とこれを決定ケツジョウ(はっきりと決めること)されるのである、不依倚の道理が仏性であるからである。
合掌
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