/この「不敢」(恐れ入ります)は敢・不敢の義ではなく、悟不悟(悟は不悟であり、不悟は悟である)ほどのことである。「水牯牛」が「道吽々」という意である。「不敢」は不許フコの言葉に似ているが、「宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず」と言うのである。
/「かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨、さらに又道取なる道取、こゝろみて道取してみるべし」と言う。
「かくの如く」と挙げるのは「不敢」(恐れ入ります)という言葉である。「不敢」の出てくる響きは、いわゆる「定慧等学すれば明見仏性なり、此の理如何」から、「草鞋銭は何人をしてか還えさしめん」までの義を、みな中に入れて言うのだというのである。
/この「道取」(言う)の言葉が重なるのは、/「定慧等学」の学が「明見仏性」の所にあるという「道取」である。
/この理は、「定慧」の「学」によらない仏性を説くのに、「十二時中不依倚フエイ一物始得イチモツシトク」(十二時中一物にも倚りかからずして、始めて仏性を見ることができる)と言われる道理を/言い、/「莫便是長老見処麼マクベンゼチョウロウケンジョマ」《便ち是れ長老の見処なること莫ナしや》(すなわち是れは長老が会得エトクした処ではないのか)が明見仏性(明らかに仏性を見る)と言われ、/不敢(恐れ入ります)という言葉、/「漿水銭且致ショウスイセンシャチ、草鞋銭教什麽人還ソウアイセンキョウジュウモニンゲン《漿水銭は且シバラく致オく、草鞋銭は什麽人ナニビトをしてか還カエさしめん》」(行脚アンギャ中に飲み水を買った銭はともかくも、わらじを買った銭は誰に返させるのか)という言葉、これらをあげるので、今までの言葉を続けて言われるのである。
〔抄私訳〕
《この草子であげる六つの言葉に合わせると、「黄檗便休」(黄檗はそこで休んだ)の言葉を加えて六の数に当てられるのである。
しかし、『聞書』のように、「十二時中不依倚フエイ一物始得イチモツシトク」の一句の上下に二点加えられるのは、疑問である。》
〔『正法眼蔵』私訳〕
黄檗は、不敢(恐れ入ります)と言う。(黄檗いはく、「不敢フカン」。)
この言葉は、宋の国で、自分に有る能力をたずねられたとき、出来ることを出来ると言う場合でも、不敢と言うのである。(この言は、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。)
したがって、不敢と言っても文字通りの不敢ではない。(しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。)
不敢と言ったからといってその言葉通りだと思ってはならない。(この道得はこの道取なること、はかるべきにあらず。)
そうであるから、長老を広く諸仏祖と見ても、また狭く黄檗オウバク一人と見ても、その返事は不敢と言うよりほかはないのである。(長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。)
これは一頭の水牛が出て来て、モーモーと鳴くようなものである。(一頭水牯牛スイコギュウ出来道吽吽ウンウンなるべし。)〔本当に牛なら、牛だと言うに及ばず、ただモーモーと鳴けばよい。ゴンと鐘が鳴れば鐘と悟ればよく、鐘がゴンと鳴ったと言うに及ばない。不敢というのが仏性だから、牛がモーモーと鳴いたように、仏性が仏性と鳴いたというのである。これは黄檗が不敢と言ったその言葉が、仏性に極く親しいからそこを褒められるのである。〕
不敢と言うのが真に仏性を言い抜く言葉である。(かくのごとく道取するは道取なり。)
仏性を十分に言い抜いた言葉を、自分の口で言ってみるべきである。(道取する宗旨さらに又道取なる道取、こころみて道取してみるべし。)
合掌
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