〔『正法眼蔵』本文〕
また、大潙にむかひていふべし。
一切衆生無仏性はたとひ道得ドウトクすといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在ムヤミケンザイ《夢にも未イマだみざること在る》なり。
試挙看シコカン《試みに挙アげて看ミよ》。
〔抄私訳〕
・「また、大潙にむかひていふべし。「一切衆生は無仏性」はたとひ道得すといふとも、「一切仏性は無衆生」といはず、「一切仏性は無仏性」といはず、いはんや「一切諸仏は無仏性」は夢にだにも未だ見ざること在るなり」とある。これは、「一切衆生は無仏性」の道理が響くところが、このように無尽に言われるのである。
だからといって、大潙がこの「一切仏性無衆生」「一切仏性無仏性」「一切諸仏無仏性」の道理を言い残したと理解してはならない。このような道理は、この草子のいつものことである。また、「夢也未見在」とあるからといって、上の道理などを大潙が夢にも見なかったと理解してはならない。ここでは、これらの言葉が出てこないところを仮にこのように言われるのだと理解すべきである。
・/「 試みに挙げて看よ」という言葉はよく使われる。これは、「この道理の有るところを言え、聞こう」という道理である。
〔聞書私訳〕
/「大潙にむかひて」は、「一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも」と言って、「一切仏性無衆生といはず」とあるのも、つまる所、「仏性」と「衆生」を近くに引き寄せない意である。
/衆生の有無を借りて仏性の有無を説くときは、衆生に有仏性あり、衆生に無仏性あり、衆生に有仏性なし、衆生に無仏性なしと言う。このわけは、有無の二法が仏性であるからである。
/「一切衆生無仏性」を二段階で心得るには、
「一切衆生無仏性」と心得れば、
「一切仏性無衆生」とも言われるであろう、
「一切仏性無仏性」とも言われるであろう、
「一切諸仏無仏性」とも言われるであろうと心得られ。
これはまだ最初の段階の心得方である。
究極に至るときは、
「一切仏性無衆生」とも言われないであろう、
「一切仏性無仏性」とも言われないであろう、
「一切諸仏無仏性」とも言われないであろう。
このことから、「一切衆生無仏性のみ仏道に長なり」と言われるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
次に、大潙に向かって言おう。(また、大潙にむかひていふべし。)
「一切衆生無仏性」はたとえ言い得たとしても、「一切仏性無衆生」と言わず、一切仏性無仏性と言わない。(一切衆生無仏性はたとひ道得ドウトクすといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、)
まして「一切諸仏無仏性」ということはいまだ夢にもみたことはないであろう。(いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在ムヤミケンザイ《夢にも未だ見ざること在る》なり。)
この道理の有るところを言ってみよ。 (試挙看シコカン《試みに挙アげて看ミよ》。)
合掌
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