〔『正法眼蔵』本文〕
且問你シャモンニイ、大潙ダイイ、百丈ヒャクジョウしばらくきくべし。
謗ボウはすなはちなきにあらず、仏性は説得セットクすやいまだしや。
たとひ説得せば、説著を罣礙ケイゲせん。
説著セッジャクあらば聞著モンジャクと同参なるべし。
〔抄私訳〕
・また、「且問你シシャモンニイ、大潙ダイイ、百丈ヒャクジョウしばらくきくべし。謗ボウはすなはちなきにあらず、仏性は説得セットクすやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙ケイゲせん。説著セッジャクあらば聞著モンジャクと同参なるべし」とある。
これは、謗ることはしばらくの間ないわけではないが、仏性を説き得る人はいるのか。もし説き得れば、説く人は仏性に覆われるであろう。そうであれば、説く人もいれば、聞く人も同参(同時に参じる)であるというのである。
たとえば、「謗」の言葉を受けて、仮に謗ることがあっても、これは「また仏法僧を謗ず」と説き得る百丈も仏性である。それならば、この説くことはみな仏性に打ち取られてしまったからには、説くことも仏性、聞くことも仏性である。そうであるから、今の「謗」の語は、決して物をおいて良い悪いと言うことではない。そうであるから、この「謗」も仏性であり、誹謗ヒボウ(そしること)の意味ではない道理が明らかなのである。
〔聞書私訳〕
/「謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得セットクすやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙ケイゲせん。説著セッジャクあらば聞著モンジャクと同参なるべし。」と言う。《これはそのまま「説」を指して「罣礙ケイゲ」(妨げる)と言うのである。また「同参ドウサン」(同時に参じる)とも言うのである。》ただ「謗」も「説」もなく、仏性だけが残るのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
汝、大潙、百丈よ、しばらく訊キくぞ。(且問尓、大潙、百丈しばらくきくべし。)
〔有仏性というのも無仏性というのも謗で仏性が説けているから、〕謗ソシることはないわけではないが、仏性を説き得る人はいるか。(謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。)
もし仏性を説き得れば、仏性が表れて仏性にしてしまうから説くことがなくなるのである。(たとひ説得せば説著を罣礙ケイゲせん。)
説くことがあれば、聞くことも同じく仏性なのである。(説著あらば聞著モンジャクと同参なるべし。)
合掌
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