スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-10-2①『第三仏性』第十段その2①〔すでにこの身心は仏性の在り処カである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

これすなはち百丈ヒャクジョウの道処ドウショなり。


いはゆる五蘊ゴウンは、いまの不壊身フエシンなり。


いまの造次ゾウジは門開なり、不被五陰礙フヒゴオンゲなり。


生を使得シトクするに生にとどめられず、死を使得するに死にさえられず。


いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖クフすることなかれ。


すでに仏性の処在ショザイなり、動著ドウチャクし厭却エンキャクするは外道ゲドウなり。



〔抄私訳〕

・また、「五蘊は、いまの不壊身なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり」と言う。一般には、五蘊(色受想行識:人間の身体と精神作用)は「不壊身」であるはずがない。けれども、仏性の上の五蘊であるから、不壊身であることは疑いない。「造次」〈一瞬一瞬の働き〉も実に「門開」〈解脱の門がからりと開けている〉であるから、「無礙風」〈礙りの無い風:仏性〉である。この道理の上では、「生を愛し、死を恐怖する」ことは、実に理に背くのである。「すでに仏性の処在(ありか)なり」と決着された「処在」の言葉は、主体が在るはずと思われるけれども、ただ仏性の上の「処在」である。


〔聞書私訳〕

「いはゆる五陰はいまの不壊身なり」と言う。この「いまの」という「いま」は、仏法の今でなければならない。我々のことを「いま」とは指さない。五蘊と聞くと壊身(壊れる身)と思われるのだが、「不壊身」(壊れない身)と言うと、首尾不相応に思われるけれども、仏法の上からは言うまでもないことである。更にはまた、関係のないことを聞くように思われる。つまるところ、吾我〈自我〉を離れてしまえば、諸々の懷身は皆「不懷身」である。「一切衆生、悉有仏性」〈一切衆生は、すべて仏性である)であるから。


/「いたづらに生を愛する事なかれ、みだりに死を恐怖する事なかれ」とは、愛すると言い恐れると言うのは、世間の生死を理解するときの意味である。今は仏道の生死のことであるので、愛も恐もない。生が生を説くときは、愛するはたらきはない、「生也全機現ショウヤゼンンキゲン〈生は全宇宙のはたらきの現成〉であるから。死が死を説くときは、恐れることはない、「死也全機現」であるから。吾我の身がない時は、「無礙風」の道理も現れ、解脱するのである。


/「すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり」と言う。この「処在」は能所(主客)の意味ではない。「処在」はそのまま仏と指すのである。悉有が仏性であるのと同じである。「仏性の処在」は衆生である。


/仏は正報ショウホウ(身心) であり、国土は依報エホウ(環境世界) であるとは理解しないのである。仏を「国土」とも取り、「国土」を仏とも言うのである。仏が往来する時は、「国土」も一緒に往来する。「国土」を東に置いて仏は西へ行くとは、決して理解してはならない。我は日本国の者だが、身だけ中国 へ渡るとは言えない。凡夫の考えに似るはずがないから、「動著し厭却するは外道なり」とあるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

これがすなわち、百丈が説くところである。(これすなはち百丈の道処なり。)


言うところの五蘊は、壊れることのないこの身心である。(いはゆる五蘊は、いまの不壊身なり。)


この身心の一瞬一瞬の働きは、解脱の門がからりと開け、五蘊に妨げられず自由自在なのである。(いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。)


生を使い得て生に引き留められず、死を使い得て死に妨げられることがないのである。(生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさえられず。)

 

無駄に生を渇愛してはならない、無闇に死を恐怖してはならない。(いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。)


すでにこの身心は仏性の在り処であり、動揺したり執着したり、厭イトい却シリゾけたりするのは、仏道以外の道である。(すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり。)


                           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...