〔『正法眼蔵』本文〕
是れ車と作ナして因果を運載ウンサイす。
生に処して生に留められず、死に処して死に礙サへられず。
五陰ゴオンに処して門の開くるが如し。
五陰に礙へられず、去住自由キョウジュウジユウにして、出入無難シュツニュウブナンなり。
〔抄私訳〕
・また、「車と作して因果を運載す」と言う。「車と作す」といっても、物を載せて運ぶ普通の車ではなく、三車(羊車・鹿車・牛車)の内の大白牛車ダイビャクゴシャ(仏の乗り物)であり、これは「仏性」を「車と作す」のである。
「運載」も、運び入れたり運び出すということではない。生も全機(全分のはたらき) の生、死も全機の死であるから、「生に留められず」、「死に礙サえられず」ということは言うまでもないのである。
・「五陰に処す」も「門の開くるが如し」と言う。五蘊ウンは色(身体)受(感受作用)想(概念や表象)行(意志)識(認識作用)である。これも仏性の上の五蘊である。「門の開くるが如し」とは、「妨げられない」ということである。
・「去住自由にして、出入無難なり」と言う。いかにもその趣旨がある。仏性の上では、自由な出入りに難は無く、本当に何の煩ワズラいもないのである。
〔聞書私訳〕
/「車と作して因果を運載す」とは、「因果」を説く言葉である。「因果」は「運載」の意味であり、「運載」は運ぶ意味である。今、「因果」を、仏法ではどのように運ぶのであろうか。東より西に運び、過去より未来に運ぶのではない。諸法(一切のもの)が実相(そのまま真実相)であるように、大乗の因を運べば、大乗の果となるように、ただこの上で運ぶと説かれるのである。
「因果を運載す」の言葉を、ただ無駄に物を運ぶと心得れば、上の「上々智」の言葉も、「仏道立此人」の言葉も、「仏有仏性」の言葉も、「導師」の言葉も、本意に背き、道理にそれるのである。
運ぶということは、今に始まったことではない。『現成公案』の巻で、「自己を運びて万法を修証する」(自己を運んであらゆる存在を修証する)ということも、万法(あらゆるもの)がすなわち自己である道理なのである。
下に対する「上々智」ではない。「仏道立此人」〈もとから仏道によって生きている人〉というのも、今仏道を建立する人というのではないのである。「導師」というのも、誰を導くのか。教化する者と教化される者を仏道ではおかない。「導師」もこれほどに心得るべきなのである。教化する者と教化される者を立てるときがあっても、以前教化されなかった者が、今教化されるとは心得ないのである。
/「生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず」とは、我々の生死ではなく、仏のことなのである。そもそも、仏の「去住」「出入」は、どのようであろうか、我々と同じではないのである。
「去」(行く)も不変の意味であり、「住」(留まる)も行に対する住ではないから、「自由」と使うのであり、「出入」もまた同様なのである。
/「生にも死にも、留められず、或いは礙えられず」と説く。「去住自由にして、出入無難なり」というのも、仏果(仏の果報)のことであるから、我々の取り分はなく、ただ謗の言葉を聞いたようなものである。
我といって自己と理解すると、生死にも留められ妨げられ、出入も難しいのである。だから全機現〈全分のはたらきの現成〉の「生死」でなければならないのである。
/これは「去来」ではない「生死」であるから、「煩悩即菩提」という言葉と、「煩悩として断ずべきものもなく、菩提として現すべきものもない」という言葉は同じなのである。そのわけは、煩悩を置くところがなく、菩提もまた置くところがないから、等しいのである。
/「使得」とは、生であり、「全機現」〈全分のはたらきの現成〉と心得ることを言うのである。我と言って自己と理解すると、「生死」に留められ妨げられのである。「出入」も難がある。全機現の「生死」なのである。
/「五陰に処して門の開くるが如し。五陰に礙えられず」と言う。「五陰」とは、我々の身ではない。「門の開くる」とは、妨げ留められないのである。「礙えられず」とは、上の「無礙」「自由」などと説かれる意味合いである。
/「去住自由にして、出入無難なり」と言う。これは文の通りである。以前の意味と同じであり、「自由」「全出」「全入」である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
仏は、妨げのない智慧を車として、因果を載せて運んで行くのである。(是れ車と作して因果を運載す。)〔つまり、六波羅蜜ロクハラミツを身に及ぶだけ、布施・持戒・・・何でもずんずん勤めて行くのである。〕
仏は、生にあっても生に引き留められず、死にあっても死に妨げられないのである。(生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず。)
仏は、五蘊ゴウン(色受想行識)の身心シンジンであっても、五蘊の門がからりと開いている解脱の境界キョウガイなのである。(五陰に処して門の開くるが如し。)
仏は、五蘊に妨げられず、行くも留まるも自由であり、出るも入るも難しいことは無いのである。(五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。)
合掌
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