〔『正法眼蔵』本文〕
杭州コウシュウ塩官県斉安セイアン国師コクシは、馬祖下バソカの尊宿ソンシュクなり。
ちなみに衆シュにしめしていはく、「一切衆生有仏性ウブッショウ」。
いはゆる「一切衆生」の言ゴン、すみやかに参究サンキュウすべし。
一切衆生、その業道依正ゴウドウエショウひとつにあらず、その見ケンまちまちなり。
凡夫ボンプ外道ゲドウ、三乗五乗等、おのおのなるべし。
いま仏道にいふ一切衆生は、有心者ウシンシャみな衆生なり、心是シンゼ衆生なるがゆゑに。
無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心ゼシンなるがゆゑに。
〔抄私訳〕
・仏の言葉は、『第三仏性』の巻の第一段で「一切衆生悉有シツウ仏性」〈すべての生きとし生けるものはすべては仏性である〉とあり、ここでは、「一切衆生有ウ仏性」〈すべての生きとし生けるものは有仏性である〉とあり、ただ「悉」の文字を略しただけであるが、仏の「一切衆生悉有仏性」と違わないのである。
もっとも、仏祖の皮肉骨髄〈全身〉が通じることは、今に始まったことではない。三世(過去現在未来)の諸仏もシナ六代の祖師も、まだ言わなかったことが有るといって、道元禅師は、「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今またかくの如く無分別の法〈思量分別を超えた教え〉を説く」と言われたのである。
これは『法華経ホケキョウ』の言葉であるが、これが道元禅師のお言葉となる時は、釈尊は三世の諸仏や六代の祖師に身を隠すから、このように述べられるのである。今の「一切衆生有仏性」はこれと違わない。
斉安セイアン国師(唐時代の禅僧、842年没)の「一切衆生有ウ仏性」の道理によって、釈尊シャクソンは「一切衆生悉有シツウ仏性」の仏の言葉を述べられているとも心得ることができる。
『第三仏性』の巻の第四段にある「一切衆生無仏性」(一切衆生は無仏性である)という四祖大医道信禅師(651年没)と五祖大満弘忍禅師(675年没)の問答の道理を受けて、迦葉仏カショウブツ(釈迦の先代の仏)も釈迦仏も、今の「一切衆生悉有仏性」(一切衆生はすべては仏性である)の道理を述べられるというほどのことである。
〔法(教え)は三世を超えており、「一切衆生有仏性」「一切衆生無仏性」の法から釈尊の「一切衆生悉有仏性」の法が現れているとも心得ることができるということである。〕
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