〔『正法眼蔵』本文〕
いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。
無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに。
しかあれば、心シンみなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。
草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。
日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。
国師の道取する有仏性、それかくのごとし。
もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。
〔抄私訳〕
だから、「衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」とある。
「心」も「衆生」も「草木国土」も、みな「仏性」である道理が理解できるのである。「国師の道取する有仏性、それかくのごとし」とあるのは、いかにもそう言われる理由があるのである。
ただ普通に考えるように、一切衆生に仏性が有ると決して理解してはならない。「一切衆生」も仏性、「有仏性」も有の仏性である。この有は決して有無相対の意味ではないのである。
〔聞書私訳〕
/「有仏性」という「有」は、有無の見方を離れ、無に対する有ではない。他の宗門では、義を立ててどうして有仏性なのかと言うであろうが、今はただ、直に「有仏性」という意なので、教義ではない。
闡提センダイといっで仏性がない衆生などというのも、しばらくの義である。二乗も成仏できないといっても、法華のときは成仏を許されるというような有無の意味ではない。ただ衆生は「有仏性」というのである。《仏性を具えるところを有仏性と言い、具えないところを無仏性というのではない。》
〔『正法眼蔵』私訳〕
今、仏道で言う「一切の衆生」は、心の有る者はみな衆生である、心は衆生と不離一体であるから。(いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆへに。)
心の無い者も同じく衆生である、衆生は心と不離一体であるから。(無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆへに。)
そうであるから、心はみな衆生であり、衆生はみな有仏性なのである。(しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。)
草木国土は心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性である。(草木国土これ心なり、心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり。)
太陽月星座も心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから有仏性なのである。(日月星辰ニチガツセイシンこれ心なり、心なるがゆへに衆生なり、衆生なるがゆへに有仏性なり。)
国師の言う有仏性とは、このようなものである。(国師の道取する有仏性、それかくのごとし。)
もしこのようでなければ、仏道で言う有仏性ではないのである。(もしかくのごとくにあらずば、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。)
今国師が言う宗旨は、「一切衆生は有仏性である」ということだけである。(いま国師の道取する宗旨は、「一切衆生有仏性」のみなり。)
まったく衆生でないものは、有仏性ではないのである。(さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。)
合掌
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