スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-7-4③『第三仏性』第七段その4③〔評釈〕〔この身心はこのまま仏性の現れだ〕


 「身現円月相」(身に円月相を現ず)ということがこの第七段の要カナメです。

この身が円い月の姿、つまり、この身心はこのまま仏性の現れだということなんですね。


しかし、人間は、自我の満足〈我慢〉を求めて、悲喜劇の人生模様を繰り広げています。その結果得られる脳内化学物質の分泌による満足感は長くは続かず、満足追求と不満の七転八倒が果てしなく続いていく、といったところです。


そして、満足が得られないと、あらゆる手段に訴えます。そのため、争いは随所で起こり、殺戮はおさまることなく、自死もなくなることはありません。80億人と200カ国のエゴとエゴがぶつかり合う人間社会は五濁悪世の観を呈しているようでもあります。


ギリシャ神話では、神は人間が生きるために人間に火を与えましたが、人間は他の人間を殺戮するためにも火を使うようになりました。その結果、地表で戦火が止むことはなく、今や第三次世界大戦による人類滅亡が危惧されるまでになってきています。


しかし、道元禅師は、「この身心の現れは仏性のすがただ」〈身現円月相〉、このように現れているこの身心が、そのまま仏の体だ〈以表諸仏体〉、煩悩まみれであろうが、問題だらけであろうが、何がどうなっていようが、この身心が今ここにこのように在る、そのまま仏性の現れなんだよ、そのこと自体が仏である証拠なんだよ、と仰ってくださっているのですね。


今、ここで、見えます、見ようと思わなくても見えます。この身心に具わっている視覚機能と環境が触れ合うと、見ようと思わなくても眼前のものが見えます〈眼見目覩〉。今、聞こえます、聞こうと思わなくても聞こえます。


立ち上がり、カーテンを開け、頭を上げると、青空が見えます、暖かい日差しが感じられます、青空の向こうに宇宙が観じられます、極小宇宙〈四大五蘊によって構成されるこの身心〉と極大宇宙〈四大五蘊のこの身心が想像することによって表れる大宇宙〉が相互共存〈インタービーイング〉しながら表れています〈身現相〉、すべての現象〈蘊処界〉は仏性によって表れていることが頷ウナズけます。


春の時節、「ホーホケキョー」、二階の窓越しに隣家の桜が見えます。小鳥が飛んできてとまると桜の小枝が揺れます。色形のないものが、声なき声で、姿なき姿で法を説き、すべては仏性であると弁じています〈説法其の形無し、用弁は声色に非ず〉


「シーーーン」と法音が脳内から全身に広がり、「ケキョケキョケキョ・・・・ホーホケキョ」の法音と互いに響き合い、聴こえる通りに思量〈聴取するが如く思量〉され、「ホーホケキョー」は「すべて仏だ」と説き、「シーーーン」も「すべては仏だ」と説きながら深まっていきます。この身心〈具象〉は宇宙〈普遍〉の現れです。


この身心の働きは宇宙〈普遍〉の働きです。今ここに宇宙〈普遍〉がこのように現れ、宇宙がこのように働いているのです。宇宙が宇宙を見ています、宇宙が宇宙を聴いています、宇宙が宇宙を呼吸しています、宇宙が宇宙を想像し、それによって宇宙が一瞬一瞬創造されているのです。


だから、この身心は私という思い〈脳内の一瞬一瞬の電気化学作用〉ではなく〈除我慢〉、この身心は仏の体の表れです〈以表諸仏体〉。この身心が今ここに在る、この身心がこのように不生不滅している、変化しながら現れている、これが仏性です〈見仏性〉。どんな人でもどんな時でも仏性であり、あらゆる束縛から解放されているのです〈解脱〉


お釈迦様、道元禅師様、「この身心の現れは仏性だ」と自覚され、私たちにお示しいただきました。本当にありがとうございます、感謝合掌礼拝します。


シーーーン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



                 合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓


コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...