〔『正法眼蔵』本文〕
伽那提婆カナダイバ尊者ソンジャ、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会シュウエにつげていはく、
「此是尊者、現仏性相、以示我等。《此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり。》
何以知之。《何を以てか之れを知る。》
蓋以無相三昧形如満月。《蓋ケダし、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。》
仏性之義、廓然虚明なり」。《仏性の義は、廓然カクネンとして虚明コメイなり》
〔聞書私訳〕
/「此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり」(これは正に尊者が、仏性の相を現し、それで我々に示すのである)というこの「示」の字は、「悉有仏性」〈あらゆるものは仏性である〉の「有」と心得るのである。
聴衆の言葉で、そのまま聴衆に示すのは、ここで言う「目所未見」以下の言葉がそれである。
〔「此れ」は、聴衆が言った「今我ら目にまだ見たことがない所、耳に聞く所なく、心に識る所なく、身にとどまる所なし」を指し、これが、「尊者が仏性の姿を現していること」を示しているというのである。〕
〔『正法眼蔵』私訳〕
伽那提婆尊者は、その時、龍樹尊者の身の現れを指して、聴衆に向かって言った、(伽那提婆カナダイバ尊者ソンジャ、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会シュウエにつげていはく、)
「これは尊者が、仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉の姿を現して、それを我々に示しておられるのである。(「此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり。)
どうしてそれが分かるのか。(何を以てか之れを知る。)
思うに、無相になり切っているのは、形が満月のようであるからである。(蓋ケダし、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。)
仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉というものは、とらわれるものなく、カラリと開けて明らかである」と。(仏性の義は、廓然カクネンとして虚明コメイなり」。)
注記:〈 〉内は訳者の独自注釈、〔 〕内は訳者の補足。
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