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正3-7-2④『第三仏性』第七段その2④〔きまった形の無いものが更に無相になり切るとき、身に現れるのである〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

蘊処界に一似なりといへども「以表」なり、「諸仏体」なり。


これ説法蘊なり、それ「無其形ムゴギョウ」なり。


無其形さらに「無相三昧」なるとき、身現なり。 


一衆イッシュいま円月相を望見モウケンすといへども、「目所未見モクショミケン」なるは、説法蘊セッポウウンの転機なり、「現自在身」の「非声色ヒショウシキ」なり。


即隠ソクオン、即現ソクゲンは、輪相の進歩退歩なり。


「復於坐上現自在身ブオザジョウゲンジザイシン」の正当恁麼時ショウトウインモジは、「一切衆会イッサイシュエ、唯聞法音ユイモンオウオン」するなり、「不覩師相フトシソウ」なるなり。



〔抄私訳〕

・又、「蘊処界に一似なりといへども以表なり、諸仏体なり。これ説法蘊なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき、身現なり」云々。これは、「〔仏性を〕以て表すのである」、「諸仏の体である」、「説法の集りである」、「きまった形が無いものである」、「無相の三昧である」と一つ一つ挙げられ、これらが「蘊処界」(認識界)等に「非常に似ている」が、そうではない理由を釈されていると心得るべきである。


・又、「一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の転機なり、現自在身の非声色なり。即隠、即現は、輪相の進歩退歩なり」云々。「一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の転機なり」とは、龍樹が法座に上がって説法をなさる姿が、「目所未見」の道理なのである。龍樹が高座に座っておられるのを、聴衆は見ないと心得てはならない。「現自在身の非声色」といっても、不思議な身を現されるのではない。ただ高座で説法する姿を、「自在身を現す」と名付けたのである。


「即隠、即現は、輪相の進歩退歩なり」とは、一般には、龍樹が高座で説法する姿は円月相であり、「説法無其形、用辯非声色」〈説法はきまった形は無い、弁を用いることは声や色ではない〉の偈文を説いた後は、輪相は消えて元の僧形の龍樹で坐しておられると心得るが、そうではない。ただ龍樹が説法する僧形の姿を、円月相と説くからには、高座へ上がったり高座より下ったりなさる姿を、「輪相の進歩退歩」としばらく言うのである。


・又、「復於坐上現自在身の正当恁麼時 は、一切衆会、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり」、云々。これは、龍樹の高座での説法の姿が、すでに「仏性によって諸仏の体を表す」から、「師の姿を見ない」という道理である。「諸仏の体」であるからしばらく「師の姿を見ない」と説くのである。この次のお言葉は、迦那提婆を讃嘆されるお言葉であり、文の通りである。


〔聞書私訳〕

/「無相三昧なるとき」とは、この無は「無仏性」の無である。つまるところ、仏性の姿を説き表すのである。


/「身現」(身の現れ)とは、仏性であり、悉有である。


/「目所未見なるは、説法蘊の転機なり」とある。この段の初めで、聴衆が「今、我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し」と言う。


/この「目に未だ見ざる所」以下の言葉は、今の聴衆の立場になって言うのだと、かたよった見方をするだろうが、そうではない。「自在身を現ずること、満月輪の如し」の姿をあげるのである。たとえ、「目に未だ見ざる所、耳に聞く所無し」と言っても、「身に住する所無し」と、どうして聴衆が言うことができようか。これは自在身を現すことを言うのである。《自在身とは、皮肉骨髄であり、仏性であると言うのである。》


/「一切衆生、悉有仏性」と心得る、この衆生の身体が、みな仏性であるから、見るものと見られるもの、聞くものと聞かれるもの、識るものと識られるもの、住するものと住せられるものはないのである。仏性と親密であるから、不見・不聞・不識・不住なのである。目・耳・心・身を置くときは、目は「尽十方界沙門シャモンの一隻眼イッセキガン」(あらゆる世界は修行僧の心眼)の目であり、心は「三界唯一心」であり、身は「尽十方界真実人体」である。耳もこれほどに心得るべきである。頭頂・眼玉・鼻孔・舌頭・語頭も同様に心得るべきである。


/前には「ただ法音を聞く」と言い、今は「耳に聞く所無し」と言う。前後が違うようだけれども、前の「ただ聞く」も声ではなく、仏性の意であり、今の「耳に聞く所無し」も仏性の意である。


/「即隠、即現は、輪相の進歩退歩なり」というこの「輪」は、円であった満月の姿を言うと心得てはならない。ただ龍樹の起居であり、もとの座に帰る意味である。


/「輪相」が隠れると言っても、穏顕に関わるのではない。穏顕は仏性の義ではないのである。


/「ただ法音を聞く」とは、「無其形」の説法を聞いているのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

認識界に非常に似ているといっても、「仏性によって表れる」のであり、「諸仏の体」である。(蘊処界に一似なりといへども「以表」なり、「諸仏体」なり。)


これは説法の集まりであり、それは「きまった形は無い」のである。(これ説法蘊なり、それ「無其形」なり。)


きまった形の無いものが更に無相になり切るとき、身に現れるのである。(無其形さらに「無相三昧」なるとき、身現なり。)


一会の聴衆は現に円月相を望み見ているが、それを目でまだ見たことがないのは、説法の集まりとしてのはたらきに転じたからであり、「自在身を現す」ことが「感覚の対象ではない」からである。(一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見モクショミケンなるは、説法蘊セッポウウンの転機なり、「現自在身」の「非声色」なり。)


隠れたり現れたりするのは、尊者の進んだり退いたりする姿である。(即隠ソクオン、即現ソクゲンは、輪相の進歩退歩なり。)


尊者が「また法座の上で自在身を現す」正にその時は、「一切の聴衆は、ただ法音を聞く」だけであり、「師の姿を見ない」のである。(「復於坐上現自在身ブオザジョウゲンジザイシン」の正当恁麼時ショウトウインモジは、「一切衆会イッサイシュエ、唯聞法音ユイモンオウオン」するなり、「不覩師相フトシソウ」なるなり。)


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