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正3-6-1⑥『第三仏性』第六段その1⑥〔外道の常・楽・我・浄と、仏の常・楽・我・浄とは、はるかに異なる〕

  〔聞書私訳〕

/六祖は言う、「仏はこれ、凡夫や外道が邪常に執するから、諸々の二乗の人は常を無常と考え、いずれも八倒と成るのである。それ故に、『涅槃了義教』(仏法の義を完全に説きおわった経典)の中で、その偏見を破る」と。

これは邪執や邪計(間違ったえ)の様子を説明するのである。四顛(常顛倒・楽顛倒・我顛倒・浄顛倒)八倒などというのは、道理に反した倒見のことを言う。八倒と数えるのは、外道の常・楽・我・浄と、声聞の苦・空・無常・無我の八つがすべて顛倒の法(正しい道理に反する考え)であるから八倒と言うのである。


/外道(仏道以外の道)の常・楽・我・浄と、仏の四徳波羅蜜(成就したさとりの功徳)の常・楽・我・浄は、文字も数も同じであるがその意味ははるかに異なり、言葉は同じであってもその意味は違うというのはその通りである。外道が常・楽・我・浄と言うのは、すべて自我を元としており、常と言っても、楽と言っても、浄と言っても、自我によって常であるとも、楽とも、浄とも言うのである。


仏は、「苦は即ち法身」と説くから、声聞の苦を楽と言われ、常も楽も我も浄も、一切のものが仏法である時節であるから、迷と悟も等しくただ同じことであり、「悟上に得悟し、迷中に又迷う」ということである。


/声聞が苦・空・無常・無我と説くのは、みな三界(衆生が輪廻する欲望・物質・精神の三つの世界)を元として、これを厭わせるために説くのである。仏が四徳波羅蜜で一貫して破斥される様子はこのようである。

声聞の方 ・・・ 苦  空  無常 無我

仏道の方 ・・・ 常  楽  我  浄 ・・・ 〔仏の四徳波羅蜜〕

四諦の法 ・・・ 苦  集  滅  道


/六祖は、「しかも顕わに真常・真我・真浄」と。真常のことこそこの段が説くことである、我と浄はどうして出てきたのかと思われるが、「凡夫や外道が執する諸々の二乗の人の邪計が、共に八倒となる」と言った時に、八倒の言葉について、我と浄とが出てくるのである。


/仏性の語によって常・無常の意味を判別する、六祖のお考えは、すべて外道と二乗の邪計を除こうとするために、真常・真浄とあるのである。


/疑う者が言う、「若しそうであるなら、どうして真楽と言わないのか」と。答えて言う、「本当にその通りである。ただ一時的にこれを略したのである。常・我・浄の三つが真であるからには、真楽の意味が欠けることはない」と。


/六祖は言う、「お前は今言葉の意味を取り違えている」と。これは行昌を非難するお言葉である。

ここまでは六祖と行昌の問答のお言葉を明らかにするのである。


/ところで、祖師のお言葉に、「吾れが伝える仏心印(仏が悟られた真理) がどうして敢て仏の経に違うことがあろうか」とある、

近頃の禅僧は多く、「私の法は仏の心印をお伝えする法だから、経の教えに依るべきではなく、言語を用いるべきではない」と言う。今の祖師の言葉とは大いに違っている。自分が経文を誤解し、祖師の言葉を理解しなければといって、仏の経を捨てようとするのは六祖のお言葉に背く。また、祖師の言句を理解しないで、仏の経の意味を言ってはならないということも、ただ疑っておれと教えることも理解できない。もしそうであるならば、前代の祖師の上堂(法堂に上がって説法すること)・入室(指導を受けるため師家の室に入ること)は何のためか。また、前代の祖師の言葉を挙げて、頌古(古則公案を詩で意を著したもの)し、拈古(古則公案を拈提すること)し、下語アギョ(師家が学人に示すこと)し道理を説くのは、また、何のためか。


もっとも、上堂・入室の言葉も理解できず、下語し道理を説く意も分からないといって、意味がないと言うことはどう考えてもおかしなことである。このようにいう連中は、義を上げ理を尽くす経説を理解することはできないのである。言葉をわかりやすくし、理をかみ砕いて書かれた仮名の書籍も、理解できないからといって、額に掛けているのであろうか。


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