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正3-5-3①『第三仏性』第五段その3①〔人に南北の違いがあっても、仏性に南北の違いはない〕  

〔『正法眼蔵』本文〕

六祖いはく、「人有南北なりとも、仏性無南北なり」。                

この道取を挙して、句裏クリを功夫すべし。                      

南北の言、まさに赤心に照顧すべし。                        

六祖道得の句に宗旨あり。                             

いはゆる人は作仏サブツすとも、仏性は作仏すべからずという一隅の搆得コウトクあり。     

六祖これをしるやいなや。


〔抄私訳〕

・「六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし」とある。これは、六祖が「人に南北有りとも、仏性に南北無しなり」と言われたのは、人に南北の違いがあっても、仏性に南北の違いはないと言われたように理解される。確かにそういう意味もあるだろう。


六祖が樵夫(木こり)であった昔、市場で『金剛経』の「応無所住而生其心オウムショジュウニショウゴシン(まさに住する所無くしてその心を生ずべし)の句を聞いて発明(真理を諦める)したが、五祖に参じ、神秀ジンシュウの詩偈を破った後に、法を伝えられ袈裟を授けられたから、『金剛経』の句を聞いた時はただ道心(悟りを求める心)が明らかになっただけで、真実その時に法を明らめることはなかったであろう。そうではあるが、やはり、六祖を継がれたので、この句の内容についても「赤心に照顧すべし」というのである。


・随って次に、「六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずという一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや」と言う。この六祖の「人有南北なりとも、仏性無南北なり」と言われた言葉には、「人は作仏すとも」とある「人」がそのまま仏性であるから、「人は作仏すとも」という道理がある。仏性は仏性であるから「作仏すべからず」という道理もあり、この「人は作仏すとも」の道理に背かない。だから、この言葉の内容にこのような道理があるが「六祖これをしるやいなや」と言われたのである。


〔聞書私訳〕

/「人に南北有り、仏性に南北無し」という「人」と、「仏性」と、「南北」と「有無」は同じ道理であり、すべて「仏性」である。


/人仏性、有仏性、南仏性、北仏性、無仏性である。「人は作仏すとも仏性は作仏すべからず」とは、「作仏すべし」(仏になれる)、また「作仏すべからず」(仏になれない)というのも、同じ意味である。人も仏性も作仏も、それぞれ別の法(もの)ではないから、「仏性は作仏すべからず」と言うのである。人を認めて作仏させることは、上に「人に南北有り、仏性に南北無し」と言った時にその通りで、「人は作仏すとも、仏性は作仏すべからず」と言うのである。人も仏性も有無も南北も、つまるところ仏性の一面・両面なのである。


/煩悩を断じて菩提を証する、煩悩を断じないで菩提に入る、煩悩も断じず涅槃にも入らないと説くのはこの意である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

六祖は言う、「人に南北の違いがあっても、仏性に南北の違いはない」。(六祖いはく、「人有南北なりとも、仏性無南北なり」。)                      


この句を取り上げて、句の深意を功夫参学すべきである。(この道取を挙して、句裏クリを功夫すべし。)                    


南北の言葉を、赤心に点検すべきである。(南北の言、まさに赤心に照顧すべし。)


六祖が言った句に宗旨がある。(六祖道得の句に宗旨あり。)                             

                    

いわゆる人は仏になることがあっても、仏性は仏になることはないという一つの捉え方がある。(いはゆる人は作仏サブツすとも、仏性は作仏すべからずという一隅の搆得コウトクあり。)           


六祖はこれを知っていたかどうか。
(六祖これをしるやいなや。)


                        合掌


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