〔『正法眼蔵』本文〕
この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、 嶺南人、無仏性となり。
「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期ゴするといふなり。
〔抄私訳〕
・「いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏を期するといふなり」と言う。この作仏(成仏)の上で、さらにどのような仏になろうと言うのかということである。もっとも、この道理の上では、またどのような「作仏」もあるであろう。悉有(すべての存在)の作仏もあるであろう。有仏性の「作仏」もあるであろう。
〔聞書私訳〕
/「いかにしてか作仏せん」と言うからには、仏性は既に決まっている。作仏のことを言うのに、「いかなる作仏をか期する」とは、阿弥陀仏となろう、薬師仏となろうということではなく、「作仏」の姿は、「いかに」と説かれるのである。「無仏性」の言葉の時は、作仏は既に現われている。そうであるから、「いかなる作仏をか期する」と言うのである。いかなるも作仏であり、期待することではないからである。
/「嶺南人無仏性」という言葉を、仏性が無いと説くのではないと、説かれることは、第四段で五祖が言った「仏性は空であるから無と言う」の「無」と理解するのである。だから、「嶺南人は、無仏性なり」と説かれるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
この「嶺南人無仏性」とは、嶺南人は仏性が無いと言うのではなく、嶺南人は仏性が有ると言うのではなく、嶺南人は無仏性であるということである。(この「嶺南人無仏性」といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、 嶺南人、無仏性となり。)
「どうして仏になろうとするのか」とは、すでに仏であるのに、さらにどのような仏になろうというのかと言うのである。
(「いかにしてか作仏せん」といふは、いかなる作仏をか期ゴするといふなり。)
*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は訳者の補足。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌
コメント
コメントを投稿