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正3-3-2③『第三仏性』第三段その2③〔日常生活が、神通不可思議な仏智恵のはたらきに滞らされるといっても、仏道修行が絶え間なく継続するのである〕

〔『正法眼蔵』本文〕

しかあれば、六神通は明々百草頭メイメイ ヒャクソウトウ、明々仏祖意メイメイ ブッソイなりと参究することなかれ。


六神通に滞累タイルイせしむといへども、仏性海の朝宗チョウソウに罣礙ケイゲするものなり。



〔抄私訳〕

・「しかあれば、六神通は、明々百草頭・明々仏祖意なりと参究することなかれ」とある。これは、ただ六神通は六神通、明々百草頭は明々百草頭、明々仏祖意は明々仏祖意である。六神通を明々百草頭としてはならないと斥けられるのである。この道理は、あちらこちらに多く引用される。


・「六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり」とある。これは六神通に滞るというけれども、仏性海に滞らされて、六神通もすべて仏性であるという意味合いである。この滞累(滞る)・罣礙(妨げる)は、悪い状況になったのではない。これも仏性の上の滞累・罣礙であると理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/「明々百草頭・明々祖師意なりと参究する事なかれ」とは、つまるところ、二つのものを置かないと学ぶからである。「明々百草頭・明々祖師意」は、祖師の言葉である。捨てるべき言葉ではないけれども、ここでは、「明々百草頭・明々祖師意であると参究する事なかれ」とは、六神通波羅蜜と言うときに不足がないからである《仏神通であるから》


すでに「前三々後三々を六神通波羅蜜」と言うからには、必ずしも、「明々百草頭・明々仏祖意」に祖師の言葉だからといってへつらってはならない。これによって次の句でも、「六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり」と言っている。結局は、六神通は即ち仏性であると理解すべきというのである。この後に各々の考えがあるけれども、結局この理なのである。


/「明々百草頭・明々祖師意と参究する事なかれ」とは、例えば、迦葉の法を釈尊の法と思って参究してはならない、というようなものである。ただ同じことを同じと思って学んではならないというようなことである。


/滞累・罣礙とは、世間で思うように、悪くて滞累・罣礙するのではない。六神通に滞累するのは仏性であり、仏性海に罣礙するのは仏性である。


/結局、この滞累・罣礙は、善いことでもなく、悪いことでもない。単に仏性の言葉となって出てきたのである。仏性を仏性と言おうとするようなものである。


/例えば、実相の妙薬と言い、実相の毒と言うような滞累・罣礙である。仏法の方では妙薬であり、煩悩の方では毒と言う。衆生を破って仏となるからである。


/総じてこの段で理解すべきことは、「仏性海」を説いて言うからといって、「山河大地は皆依って建立す」とある。この建立は、仏性によって山河大地を建立すると受け取られる。また、「三昧六通、由茲発現」(三昧も六神通も、これに由って顕現する)と言うが、この由茲も、仏性によって現れると思われる。これによる(由茲)というこれ(茲れ)は、仏性を指すのである。しかし、「建立なり、正当恁麼時、これ山河大地なり」と言う。建立の正当恁麼時は、山河大地だと受け取られる時に、今改めて建立とは思えず、「皆依建立」とあるからといって、みな建立によると理解してはならない。『正法眼蔵』の言葉に、「すでに皆依建立と言う。知るべし、仏性海の形はかくの如し」とある。


/第一段に「一切衆生、悉有仏性」と言う。十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)の性は尽きることがなく、それぞれに仏性が具わっていると言う。この時は、衆生に仏性が具わっていると受け取られる。けれども、衆生の内外を、すべて仏性の悉有であると説く時に、衆生に仏性が具わっているという趣きはない。悉を仏性と習い、衆生と仏性と異なることはないのである。


/「六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり」という言葉は、「ロバが未だおわらない内に馬が到来する」(一つのことが終わらないうちに、次のことがやってくる。仏道修行が絶え間なく継続する)の言葉と同じなのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるから、六神通は六神通であり、明々と現前しているあらゆるものを明々と現前している仏祖の意であると学んではならない。(しかあれば、六神通は明々百草頭、明々仏祖意なりと参究することなかれ。)


日常生活が、無数の神通不可思議な仏智恵のはたらきに滞らされるといっても、それは仏性海に注ぎ込む河水〈仏性〉に妨げられるものであり、仏道修行が絶え間なく継続するのである。(六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり。)


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