〔『正法眼蔵』本文〕
時節若至ジセツ ニャクシの道ドウを、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後コウゴにあらんずるをまつなりとおもへり。
かくのごとく修行しゆくところに、自然ジネンに仏性現前の時節にあふ。
時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫ベンドウ クフウするにも、現前せずといふ。
恁麼見取インモ ケンシュして、いたづらに紅塵コウジンにかへり、むなしく雲漢ウンカンをまぼる。
かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道テンネン ゲドウの流類ルルイなり。
〔抄私訳〕
・「時節若至の道を、古今のやから往々におもはく」(「時節若至」の言葉を、古今の連中が往々に思うのに)とある言葉は、文の通りである。
格別変わった事情はないが、これは間違いである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「時節若至」の言葉を、古今の連中が往々にして思うのに、仏性の現前する時節は将来にあるので、それを待つことだと思っている。(時節若至ジセツ ニャクシの道ドウを、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後コウゴにあらんずるをまつなりとおもへり。)
このように修行しているうちに、自然に仏性が現前する時節に出会うのだ。(かくのごとく修行しゆくところに、自然ジネンに仏性現前の時節にあふ。)
時節が至らなければ、師に参じ仏法を問うても、修行精進しても、仏性は現前しないと言う。(時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫ベンドウ クフウするにも、現前せずといふ。)
このように考えて、折角仏門に入った者がまたもとの俗世間に帰り、むなしく天の川を見つめる。(恁麼見取インモ ケンシュして、いたづらに紅塵コウジンにかへり、むなしく雲漢ウンカンをまぼる。)
このような連中は、おそらくは天然外道(自らに具わる清浄本然なる仏法を信じていれば、自然にいつの間にか仏法を明らかにするという仏教以外の教え)の類タグイである。(かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道テンネン ゲドウの流類ルルイなり。)
合掌
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